白倉谷左岸尾根とダイラ    05.11.13


 通風山さんが管理する「やぶこぎネット」がなかなか盛況である。そこに山日和さんの「烏帽子・三国縦走中に鈴鹿一のブナを気付かずに見逃した」という投稿があった。そういえば私も以前同じミスをして、そのまま放置してあることを思い出した。私のひそかな野望の一つが、鈴鹿で三国以上のブナを見つけることである。しかし先ずは御本家を拝んでおかなければ始まらない。低山の紅葉、頃合もよし。天気もよし。散弾銃がこだまする前に登っておこう。

 朝の阿蘇谷はひんやりしていた。標高が低いのでまだ色付きはない。未だ渓流釣りの目で谷を見るくせがあり、よい落ち込みを見ると竿を振りたくなる。ワサビ栽培、墓地、炭焼き小屋、サンヤ(焼き場)など、山間の集落らしい生活臭のある谷である。しかし山の北側に位置するので、昼なお暗い陰鬱な印象は免れない。 

 朝露に濡れた丸木橋は、ソールの磨り減った登山靴ではいかにも滑りそうだった。しかもスリップした登山者を串刺しにするかのように、中ほどに竹が突き出している。おっかないのでパスして河原へ下りて渡る。しばらく考え事をして歩いているうちに、白倉谷の出合を通り過ぎてしまった。山へは世間のストレスを解消しに行くというが、そう簡単なものではない。俗世間と山はつながっている。全くの別世界へ行くわけではない。

 今日の目的は鈴鹿一といわれる大ブナの確認、三国三角点、ダイラの紅葉、ソリ道と琵琶池だが、それらは鈴鹿通なら周知のことである。何かもう一つ付け加えたいと思い、阿蘇谷と白倉谷の間、言うなれば白倉谷左岸尾根を登路に使おうと予定していた。それが俗世間の煩悩にとらわれている間に、出合を過ぎてしまったというわけだ。

 戻るのも面倒なので、途中から左の急斜面に取り付く。道のない急斜面を登らざるをえない場面はよくあることだ。強引にやれば疲れるばかりなので、地形の弱点を突かねばならない。たいていそのうちシカ道がある。欲張って前進するより、戻るように登っていけば尾根のほうで勝手に近づいてくる。そうやって尾根芯に這い上がったが、尾根自体も急傾斜で心臓が早鐘をうつ。急登を凌ぐと平坦な場所に出た。

 一回目の休憩としよう。さすがに尾根の上は東から日が射して明るい。しかしアカマツやシイ、カシ類の常緑樹が多く、まだ色気はない。シデの葉も青い。お茶と報恩講お下がりの饅頭を食べながら、ぼんやり風景をを眺める。
 今日は私の人生の節目にあたる誕生日である。しかし誰に祝ってもらうでもなく、相変わらず誰もいないような山中でひとり過ごしている。そう考えると何となく笑えてくる。信じ難いことながら「敦盛」を舞っていた時代なら、もう死んでもおかしくない歳になってしまった。過ぎ去った年月は戻れないが、精神年齢は未だ30代で停止している。

 ほぼ一定の傾斜を保ちつつ尾根は続く。きつくもないが決して緩くもない。東西どちらの谷へも急傾斜の痩せ尾根状態が続く。馬の背ならぬ、秋刀魚の背とでも言おうか。しかしヤブはなく、バリの登路として見れば上々の部類である。
 体の芯は暑くなってきたが、西からの冷たい風が手や顔の温度を奪っていく。東に烏帽子、西にダイラの頭が見え隠れする。地図を見るとこの尾根の550m付近で送電線が横切っていて、当然鉄塔があると思われる。人工物は無粋だが、鉄塔基部は展望が期待できる。

 鉄塔はあったことはあったが荒地にアセビが密生し、斜面の樹林も背が高くて展望はよろしくない。子供のころを思い出して、少しばかり鉄塔に登ってみた。猿登方面は送電線が弧を描き、鉄塔が林立している。真北にソノド、西側にはダイラやダイラの頭が見えるが、山腹の色の冴えは例年に比べて今ひとつの感がある。ここから歩きやすい巡視路をたどっていったらどんどん尾根を離れ、あわてて左へ登り返した。ムラサキシキブの実が美しい。

 尾根に戻ると傾斜は緩くなったが、少々ヤブが濃くなってきた。白倉谷側は鮮やかな黄色のシロモジや、柔らかく上品な色のタカノツメが絶品だ。ちょうど葉の裏側から日光が透けてきて、液晶のバックライトと同じ効果で大そう美しい。このところ雨とガスの山行ばかりだったので、この天気が何よりの誕生日プレゼントだ。
 前方が明るくなってきたのでピークに着いたのかと思ったら、760mで分岐する支尾根の頭だった。そこから急登をこなすと縦走路に出た。ヌタ場の東だった。

登路として充分使える左岸尾根   振り返ればソノドが見える             白倉谷側の黄葉

 県境稜線はほぼ紅葉が終わり、葉を落とした樹林は初冬の様相を呈している。目的のブナ捜索のため東へ向かう。持っている情報は烏帽子・三国縦走路の途中の岐阜県側というだけ。烏帽子に向かって急降下をしながら、登り返しが難儀だなと思う。烏帽子へ行く予定ではないので、見つけ次第引き返すつもりだ。目を皿のようにして左斜面を注視しつつ、アップダウンをこなしていく。ちっとも見つからないので、また見逃してしまったのかと焦燥に駆られたころ、それはあった。

 ブナは二本あって、その両方が巨木だ。斜面を下りて近づくと、蛇谷左岸尾根や土倉のブナとは格が違うことがひと目で分かる。寸胴で背が低いので美しくはないが、その存在感は圧倒的だ。抱擁しても自分がセミになったような気分だ。長い長い星霜が凝縮して、この木には魂が宿っている。専門家ではないので樹齢のほどは分からないが、徳川吉宗と比肩されるのではないか。

 本場へ行けばこれ以上のブナはいくらもあろうが、葉の小さい太平洋型のブナとしては立派なものである。よくぞ人里近くに残っていてくれたものだ。ロープで測っただけなので誤差はあろうが、下側のブナは胸高周囲315センチあった。πで割れば直径1mということになる。断面積に換算すると蛇谷のブナの2倍近くにもなる。その重量感に圧倒される。上側のブナは20センチほど短いが、堂々の鈴鹿2位だろう。両方とも老衰によるものか、枝が折れているのが痛々しい。

    斜面にあるブナの巨木2本           直径1mの貫禄

 急坂を登り返していたら本日初めて見る登山者と対向した。お互いあっと驚く。東雲さんだった。しばらく立ち話をする。意外なことに東雲さんもそのブナを確認していないとのことで、ぜひ見ていくことを進言して分かれた。ヌタ場のピークを越えて三国岳への登りにかかる。鍋尻山辺りから見ると三国岳は小さいながらも立派な盛り上がりを見せる。当然登りの傾斜はきつい。途中展望岩で一息入れる。晴れといえば晴れだが、青空はない。空全体が白っぽく、高気圧は遠ざかろうとしている。展望は北部カルストの山から養老山脈まで180度弱か。

 三国岳山頂は誰もいなかった。紅葉、晴れ、日曜と条件はそろっているのに、登山者の密度が極端に薄い山域だ。以前見つけてあった山頂東にあるコバで昼食にする。日当たりが良くて風が当たらず、地面は平坦で烏帽子岳も見えるという格好の場所である。下りていくと何とおあつらえ向きに、木の根元にクリタケが生えていた。ありがたく昼食の具とさせてもらう。美味であったが、万一の誤認を想定して量は控えた。その後腹痛もなく、今思えばもっと食べても良かったと後悔する。一時間近くくつろいでいたが山頂方向から声は聞こえず、誰も三国岳へ来なかったようだ。荷物を畳んで未踏の三角点峰へ向かう。

   展望岩から鍋尻山・ダイラの頭・霊仙山           見るからにおいしそう         とがった三国岳を振り返る

 三国岳下降中に本日二人目の人に会う。話好きの人で時間を食う。岐阜のノリ屋さんだそうで、写真家ののりやさんの同業者かと思ったが、海苔ではなく糊の製造をされているとのこと。考えてみれば岐阜に海はない。
 三角点峰はみすぼらしい山だが、岩の上に乗ると少し展望がある。振り返ると三国岳の突出ぶりが見事だ。山頂と最高点と三角点がバラバラに存在するとは妙な山である。白い鉄塔手前で尾根通しにダイラの頭へ登るか、ここで下るか迷っていると、犬を連れた親子が登山道を下りていった。今後の行程を考えると、やはり私もパスしよう。鉄塔まで行って写真だけ撮る。

 ジグザグに谷を下りる道は黄葉真っ盛り。全身黄色に染まるとはよくいわれる形容だが、まさにそれだ。この秋は外してばかりいたが、ようやくジャストミートすることができた。谷から登山道を離れ、ダイラの中心部へ向かう。赤いものに引かれて進むと、先ほどの犬連れの親子が休んでみえた。「私たちもこのモミジに引き寄せられました」とおっしゃる。辺り一面黄色のため、一本のモミジの赤がひと際映える。「朱」ではなく目を射るような「紅」だ。写真は相変わらずさっぱりだが、肉眼で目の保養をさせてもらった。

  真っ赤なイロハモミジ            ダイラの美に酔う               ソリ道へ向かう斜面

 さて「鈴鹿の山と谷」にあるソリ道なるものは未踏だが、P597に達するのなら自ずとコースは限定される。ダイラから高度を保ちながら北へ北へと尾根に沿って回り込めばいいはずだ。親子連れと別れて北へ向かう。
 ダイラ一帯の木は何度も伐採、利用されてきたと思う。その風景は自然と人間が共同で作り上げた、ひとつの美の極致である。中心部を縦断しながら、えもいわれぬ風景に陶然とする。なぜ誰もいないのか、全く不思議である。

 ソリ道になかなか出会わなかったが、少し高度を上げたら道に乗ることができた。谷を回りこみ、小尾根を乗り越え、錦繍ロードは延々と続いていく。ようやく尾根のほうが道に寄り添ってきた。何処が597標高点なのか分からない広大な台地に出ると、そこはまさに天上の楽園だった。その一角に窪地があって水が溜まっている。琵琶湖の形に似ているから琵琶池というらしい。水不足でそうは見えなかったが、この台地の重要なアクセントになっている。地図を見ると136°25′00″の経線がこの台地を縦断している。GPSで確認したが、当然ながらその数字を示していた。

           琵琶池の周囲も黄色に染まる                     良い雰囲気を醸しだすミズナラの木

 台地北端から東北東の尾根に乗れば駐車地に帰ることができる。最後のお茶を飲み干して帰路についた。しばらくはよい雰囲気だったが、やがて植林の急傾斜になった。これを逆に登るのはつらいだろう。ワサビ水槽の手前で登山道と合流した。そこで何とまた岐阜の糊屋さんと、ドンピシャで鉢合せした。「あー、びっくりした。クマかと思いましたよ」と言われた。道端の駐車地に着くと、向いの民家では奥さんが洗濯物を取り込んでいた。どの山も林道で奥まで入ることができ、こういう場所から山に登ることは珍しい。今日はまたひとつ歳をとったが、充実した一日を過ごすことができた。