廃村桃原からアミダ峰 03.03.23
〜脇ヶ畑カルスト台地〜
私は時間がないときは別として好んで低山に登ろうとは思わない。鈴鹿南部は御所平以南を今のところ切り捨てている。山へ登るということは即ち平地にないものを求めていることに他ならない。気象、植生、展望など標高が上がるほど平地にない特性が現れてくる。「山高きがゆえに貴からず」という格言は必ずしも当たっていない。それを言うなら鈴鹿などすべて低山だという見方もできるが、日本アルプスだってヒマラヤに比べたらすべて低山である。ここは現実的で手近な鈴鹿の話に限っても、やはり高い低いの特性はあるだろう。
その理屈で言えば、近江カルスト台地は興味の外である。実際、この辺りは五僧、保月を見学ついでに鍋尻山に登っただけの実績しかない。では何故今回アミダ峰(640m)に登ったかというと、桃原(もばら)という集落に興味を覚えたからである。桃原という字面に「桃源郷」を連想してしまったのである。
普通集落は平地を除くと谷沿いの開けた所か、山間の盆地にある。生活に欠かせない水の便が良いからである。桃原は等高線を見る限りアミダ峰の山腹をスプーンで削ったような台地にある。当然車などない時代に何故このような不便な高台に集落が発生したのだろう。石灰岩の山の山腹に水はありや?などと思った次第である。無論、杉や保月はさらに標高が高いが多賀と美濃を結ぶ街道沿いにあってしかも盆地である。あの陸の孤島と言われた茨川だって昔の街道沿いであり谷水は豊富である。
R306鞍掛峠を越える。御池岳の登山者が沢山いた。朝の大君ヶ畑、佐目の集落を通り過ぎ、多賀大社に達する。いつもの山登りに比べるとかなり遠い。久徳という町から車を東へ反転して山間部へ入っていく。杉坂峠への林道を分け、栗栖と言う集落に達する。ここはまだ平地と言えるが建物は山あいの集落の雰囲気を残している。売店の前で猿が目の前を横断した。栗栖を過ぎると右手に芹川を渡って桃原へ行く林道がある。しかし車で行ったのでは桃原を始めて訪ねるのに失礼である。芹川から昔の道を登ることにする。
廃校になって蔦が絡まり放題の芹川小学校?に車を停める。先着の若者がひとり。屏風岩でクライミングの由。9:05出発。少し戻って小さな橋を渡る所が旧道の取り付きだ。斜面を見上げると、このはるか上に集落があるとは想像もつかないだろう。最初道が分かり難かったが、やがて苔むした岩が階段状に組まれた道が現れた。落ち葉が深く堆積している。かなりの急登だ。桃原の子供はこの道を毎日通って学校へ行ったのだろう。やがて地図どおり車道の一端に出た。コンクリートの立派な道だ。この道がいつできたのかは知らないが、無人になったのとどちらが先だったのだろう。
また車道を離れて山道を登る。やがて分布に高低差のある集落の最初の建物に出た。人気はない。しかし雨戸の締まった建物はどれも手入れされているように見える。道を離れて梅の花の咲く畑を登っていくと人家が林立している。かなりの大集落だ。角に立看板があって、大仏次郎がこの地を訪れて書いたものが紹介されている。毛筆の手書きで読みにくいが、大仏次郎も桃原から桃源郷を連想したようでニヤリとする。かなり新しい家が多いのは昭和30年代に大火があったからだと「鈴鹿の山と谷」に書いてある。白川郷のような萱葺き集落を想像したのは見事に外れた。
荒れている家はごく一部なのに、白昼静まり返って人気がないのは不気味であり、体験したことのない世界だ。誰かに会わないかなあと思っていたら、坂の上の家から人が降りてこられた。ちょっと話を伺う。桃原の戸数は七十軒以上あったそうで、まだ三軒は人が住んでいるということだ。それは知らなかった。廃村と言っては失礼か。しかし学校がないのでお年寄りの世帯と思われる。この方は既に離村されていて、たまたま休日で様子を見に来られた由。アミダ峰に登りたいと言ったら「簡単に行けないよ、大変だよ」と言われた。車で廃村巡りに来た物好きと思われたようだ。登山者にすれば山頂までここから標高差300m程なので朝飯前だ。いや、それでも真ノ谷からテーブルランド位あるので昼飯前というところか。
体力的には昼飯前だが、道がよく分からないので大変だ。コンパスを首に掛け、地形図を手に持って歩く。10:00ちょうどに集落の外れから、同じような立地条件にある向之倉集落へ向かうトラバース道に入る。植林の山腹道の下に送水管が一部地表に現れている。大変な工事だったろう。一箇所桃原集落が見晴らせる場所があった。仏ヶ尾という尾根に入るタイミングを計っていたが、どうも通り過ぎたようで道は高度を下げだした。これはいかんと、強引に斜面を登って向きを変える。このあたり植林の中にカレンフェルトが見られる。
籔尾根の真中を歩いていたら、やがて道が合流した。傾斜が緩い所はなかなかいい雰囲気で休憩したくなるが、もう少し頑張る。やがて尾根の途中にある鉄塔の基部に出た。休憩して行動食を摂る。西南尾根を正面にした霊仙山が見えている。山頂は南霊岳に隠れているようだ。ここから道は少し向きを変え、ひとふん張りすると610m程の乗越しに出た。南下すればこれも廃村の杉集落へ出るはずだ。この峠を杉では桃原越と称す。ここから右折してアミダ峰へ向かう。アミダ峰は地図で見る限り車で杉坂峠まで来れば簡単に登れる山である。しかし名前が関連する仏ヶ尾から登る方がいいではないか。
こう植林だらけだと文句も言いたくなるが、自分の山じゃないからしょうがない。だらだら尾根を登っていくと突然紅白に塗られたバカでかい鉄塔の基部に出た。アミダ峰は頭が三つあって等高線を見ると目と口がある人の顔に見える。鉄塔があるのは向かって右側の目の部分である。北側だけ展望があって、送電線の果てに男鬼方面の山が見えている。北の彼方に真っ白な山が見えている(自宅で検証の結果、奥伊吹の金糞岳と判明)。ゆるゆると本峰である反対の目に向かう。
本峰には経塚や城があったという話だ。今は大杉の根元に石仏が一体在るだけということだが、大杉はあったが石仏は見当たらなかった。移転されたのか、あるいは私が場所をを間違えているのか。今度はコンパスを定めて南のピークへ向かう。ここも何もない。ただの植林の平頂だが、下界が僅かに見える。ここから杉坂峠へ行く踏み跡がよく分からない。適当に南へ斜面を駆け下りると細い車道に出た。ドンピシャ杉坂峠だった。
車道のすぐ下にお多賀さんの御神木が見えている。大したものだ。ここに多賀大社の奥宮があったとか。これも伝説以上のものではない。神木の脇の道は八重練へと続く旧道だろう。ここから真南に尾根を登って杉坂山へ向かう。登りきったところに杉坂山のプレートがあった。感慨の抱きようもないピークだ。石灰岩のある藪尾根沿いに南東へ向かうと、送電線の向うに陣尾山(ヒヨノ)の盛り上がりが見えた。杉坂山は頭が二つあって、東のピークに差し掛かったところで下界からサイレンの音が響き渡った。もう12時だ。少し下界の展望もあって日当たりもいいので腰を降ろして昼食とする。