廃村桃原からアミダ峰 (後半)
30分ばかり休んだあと東へ下って陣尾山を目指す。少し降りたらまた鉄塔へ出た。仏ヶ尾、アミダ峰と続いている鉄塔だ。ここも北東に展望がある。北から伊吹山・霊仙山・鍋尻山・その右は日山か。結局今日のコースは植林ばかりで、見晴らしのいいのはすべて鉄塔だけである。写真を撮ってさらに下ると雰囲気のいい鞍部に出た。四手集落と杉集落を結ぶ四手峠だ。結ぶと言っても今は通る人もない。山仕事の人か、物好きな登山者くらいだろう。
ここから陣尾山への登りはかなりの急登で食後には堪える。尾根の右手は植林だが、左は二次林で目に優しい。歩幅を縮めたりジグザグをきったりして凌ぎきると山頂に「ヒヨノ」のプレートが掛かっていた。西尾氏の採名は曖昧なものまで含めて鈴鹿愛好者にあまねく流布しているようだ。そして地面には三角点がある。展望は利かない。
さて縦走はこれくらいにして帰ることにする。地図を見ると四手峠へ戻らずとも真北の尾根が使えそうなのでそこを下る。北斜面なので所々残雪がある。この尾根は持ち山の境界なのか、杉にペンキが付いている。下刈り、枝打ちともよく手入れされた美林だ。やがて傾斜が緩くなって二万五千図の破線と合流した。程なく前方が明るくなって林道に出た。杉坂峠と杉集落の真中だ。杉に向かって歩いていると車が追い越していった。車道と言うにはあまりに狭い。
やがて集落の一端に出た。ここの荒れようは桃原の比ではない。哀れを誘うものだ。2台の車が来ていた。元住民ではなく遊山客だ。狭い集落で全貌はすぐにつかめる。主のいない荒れ果てた家の裏にはたくさんの福寿草が眩しく咲き誇っている。
東風吹かば
匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて
春な忘れそ
という菅原道真の歌が思い出された。複雑な思いだ。勝手に集落内へ立ち入らないようにと書かれた看板がある。気持ちは分からないではない。写真を撮っていた遊山客に「どこから来られました?」と聞かれ、「山の向うの芹川から歩いてきました」と答えたら驚かれた。しかし昔の人なら当たり前にしてきたことである。
北へ向かう山道の取り付きがよく分からないが、地図を見ると杉坂側の家の裏手の谷が道になっている。入ってみると広く浅い谷で右端が道になっている。登っていくと程なく立派な墓が並ぶ墓地に出た。よく手入れされていて不気味な感じはしない。たてられた花は目にも鮮やかで真新しい。そう言えば一昨日は彼岸だった。止むを得ず離村しても父祖の地を大切に思う心が伝わってくる。道は二手に分かれ先ほどの桃原越に向かわず、右の向之倉へ通ずる峠に上がる。真っ白なお尻の鹿が振返ってこちらを窺っている。
615m風情のあるいい峠だ。ついでに向山に立ち寄っていこう。右折して回り込んでから尾根を登る。殆ど展望はないが、木々の間から残雪の山が確認できる。御池岳だ。妙な形をしているが御池岳以外にない。鈴ヶ岳と丸山が重なる角度らしい。
地図にはすぐ西に破線があるので峠に戻らず北西に急斜面を下りた。これは良い選択ではなかった。すごい急斜面でずるずる滑っていく。棘のある木が多いのでうっかりつかめない。苦労して降りるが道がない。破線は正確ではないようで、かなり下ってから、あるか無きかのトラバース道に出た。ここは悪い。尾根に出るとやっとまともな道になった。
500m付近の尾根道は素晴らしい。殆ど水平の尾根が浮き上がり両側にコナラを中心にした雑木が立ち並ぶ。西には彦根の街と琵琶湖が遠望できる。また秋に訪ねたい天上の回廊だ。この尾根をノボリオという。向之倉から見た名前だ。再び植林の下りになる。道はよく見ていないと失われがちだ。やがて等高線より早く集落の一端に出る。最初に祠がある。中は暗くて良く分からないが、異様な雰囲気で覗き込む勇気がない。
向之倉の立地条件は平坦な桃原に比べるとはるかに劣悪だ。ポツリポツリとある人家は今にも転げ落ちそうな斜面に建っている。ここに住居を構える如何なる理由も思い浮かばない。昭和44年に廃村になったそうだ。何か妖気を感じるので早々に立ち去ろうと思ったが、「県下一の巨木」の立て札を見つけたのでこれは寄らずにいられない。右へ細道を降りていくと猿が走った。井戸神社の祠の前にその巨木はあった。桂の木らしい。確かにでかい。しかし株立ちしてすぐに分散している。たくさんの木が根を共有しているだけに見える。名前の通り下方には井戸のような泉があった。
ここにも芹川からイロハ坂のような車道が登っているが廃村とどちらが先だったのか興味のあるところだ。旧道は良く分からないので車道を降りる。ヘアピンをショートカットしようにも、すごい傾斜でしり込みする。さらに下ると山側は見上げるような絶壁だ。相当な難工事だったろう。少ない戸数に膨大な予算が投入されたようだ。いまさらながら何故こんな所に住まねばならなかったかと思う。眼下に芹川の道路、上空はるかに架線された送電線を見上げながら、良くも悪くも自然に立ち向かう機械力のすごさを思い知る。
向倉橋と書かれた橋を渡ると道路脇に県外ナンバーの高級外車が停まっていて、橋の下でフライフィッシングのファッションに身を固めた二人が華麗に糸を鳴らしていた。今しがた向之倉の生活の厳しさに思いを馳せていたのに、これが時の流れと言うものだろう。道路を歩いてほどなく廃校に置いた車にたどり着いた。帰りは国道を通らずに地獄の権現谷林道から大君ヶ畑へ抜けた。
今回は何の予備知識もなく桃原と向之倉を訪れたが、立地の疑問はなお深まるばかりだ。茨川は街道の茶屋として、あるいは鉱山の基地としての役割があったが、ここにはそれはない。まだ調べてはいないが、興味深い事だ。特に尾根にしがみつく向之倉に合理的な説明が可能なのだろうか。