静寂の雪原 奥の平 06.01.22
奥の平へ行きたしと思へども、奥の平はあまりに遠し。以前は何度も行った冬のテーブルランドであるが、ゲートが完全閉鎖されてからは行っていない。いや一度行ったが、抜け道をジムニーでコグルミ谷登山口まで登ったのである。今年は国道の大量積雪で、そんな反則技も使えない。地図を穴の開くほど見ても、楽なコースなどあるはずがない。やはりアルバイト覚悟で木和田尾か丸尾とガチンコで相撲をとるしかないのだ。坂本谷や冷川谷でもいいが、労力は同等かそれ以上だろう。国道歩きもありだが、これも辛抱を強いられる。
そんなこんなでテーブルランド、とり分け奥の平のステータスは確実に上がった。いや、魅力は不変だろうが、相対的価値が上がったのである。体力なき者は寄せ付けなくなった。
登山口を7時に出て白船10時着。奥の平12時着で1時間遊び、4時半帰着。普段は時間読みなどアバウトだが、今回はそういう計画を立てた。。奥の平といえど雪が締まってさえいたら、これくらいは可能だろうという読みである。ただし雪が悪くて白船峠に10時までに着けなかったら、潔くあきらめて頭陀ヶ平で景色を見て帰ろう。もう10年前の体力はないのでどうなることやら。すべては雪質次第である。
あまりに布団の中が快適なのでつい出遅れて、17分遅れの7:17に冷川浄水場のP発。以前の踏み跡があったので、おとなしくそれに従う。雪は締まっているというより、固まっている。アイゼンが要るようなガチガチではなく、湿気を吸って固まった塩のような状態だ。ともかく沈まないのは有難い。体調もまずまずで順調に高度を上げる。谷から巻き上がった場所からは下界がよく見える。久しぶりの好天だ。
途中からトラバースコースの踏み跡と離れて、子向井山の尾根コースを取る。こちらにも踏み跡があった。不思議なことに雪が1mはあろうかという場所もあれば、土が剥き出しになったところもある。「金も要らなきゃ女も要らぬ。わたしゃも少し背が欲しい〜」という古い漫才があった。今の場合「アイゼンも要らなきゃワカンも要らぬ。わたしゃも少しパワーが欲しい〜」となる。さすがに木和田尾はでかいので疲れてきたのだ。アンパンとお茶を補給する。先週よりは締まっていると思ったが、状況が分からないので12本爪アイゼン・ワカン・ピッケル・ストックと全部持ってきた。背中が重いのである。今のところストック以外必要ない。
やがて201号鉄塔に着いた。樹林帯から突如として開けた場所に出ると、好天が有難く実感される。三国岳と烏帽子岳の間に真っ白な霊仙山がまぶしい。伊吹山は更に白い。その右に遠く見えるのは能郷白山のようだ。
再び樹林帯に突入。道が水平になるとさすがに楽だ。9:06坂本谷分岐着。もう峠は近いように思うが、なかなかどうして、ここからのトラバースが曲者だ。
有難いことに締まる前の踏み跡があるので忠実になぞる。沈まないのでどこを歩いてもいいようなものだが、トレースした方が足が水平に置けるので楽である。トラバースで足の置き場が水平なのは大切なことで、疲れ方が全然違う。足跡が固まり、多少凸凹しているのは仕方がない。あまり楽では申し訳ないだろう。ペースは快調だ。「待ってろよ〜、奥の平!」と、気が急く。しかし峠直下の急斜面では、やはりバテた。
ようやく白船峠に這い上がった。一昨年に取り付けた看板にも再会できた。真新しい白木だったが、いい色にくすんできた。文字はまだ鮮明である。時間を見ると9:40。出遅れた割りに予定より早い。よしやれるとばかりに、休息もそこそこに奥伊勢谷に飛び込んだ。前方に壁のように聳える奥の平のでかいこと。こればかりは肉眼でないと分からない。テン場へ行くトラバース道には古いワカン跡があったが、ここは直滑降のほうが早いだろう。シリセードと小走りで真の谷へ10分で下りてしまった。時短のご褒美と、これからの急登に備えてゆっくり休む。真の谷上流側に青空が覗いている。なんとか奥の平へ着くまでもって欲しいものだ。天気予報は晴れのち雪である。
ここから1194の南まで一直線に登る。天ガ平から下りた場合、1241まで顕著な尾根があって歩きやすいが、この場所からは密な等高線の斜面をひたすら登ることになる。本日の正念場だ。時間的に気温が上がって、少しだけ雪が緩んできた。とてもしんどく、少し登っては肩で息をする。若干滑るので背中のお荷物と化していたアイゼンを履くことにする。一歩の僅かなスリップでも、何百何千歩の積み重ねでは大きなロスになる。ストックもピッケルに変えよう。振り返るとまだ白船越しに青空が見える。白船峠から下って、また登るのはバカらしい。しかしこの不条理こそが登山である。
真の谷では登り返しの余力は充分と思っていた。しかし、もうヘロヘロである。やがて空気中から絞り出されたような細かい雪がちらついてきた。空もいつの間にやら鉛色に変わってきた。ああ、無情。少し歩いては高度計ばかりを見る。沈まないのは有難いが、斜面を落ちた雪塊がゴロゴロしていて登りやすいとはいえない。斜行したり、足をハの字に開いてピッケルに体を預けたりして急登をしのぐ。ようやく白船峠と同高度に達するが、向こうのほうが高く見える。まだ半分か。ともかく進まなければ永遠に着かないのだ。もう何も考えず、高度計も見ず、ひたすら登る。
11:03、木がなくなった真っ白な壁を越えテーブルに上がる。なんという開放感。声を上げて駆け出したい衝動に駆られる。しかしそれは頭の中だけで、足が言うことをきかない。冷川谷登山口を出発してから3時間46分で来られた。予定の5時間を大幅に短縮できたのは天の利(天気)、地の利(堅雪)を得たからだ。
奥の平は人影もなく、ただ静寂の雪原が広がっていた。賑やかな御在所岳や藤原岳とはまるで雰囲気が違う。さて、これからいったい何をしたらいいのだろう。這い上がることばかり考えていて、着いてからのことは頭になかった。
雪原は固く締まり、道具は何も要らない。しかしアイゼンを脱ぐのも面倒なので、履いたまま歩いた。とりあえず空腹なので、風の弱いドリーネの底に入って昼食にした。食事中も寒さと、やがて雪雲に覆われて何も写真を撮れないのではないかという不安で落ち着かない。これを貧乏性というのだろうか。食事もそこそこに視界のあるうちにと、東のボタンブチに向かう。そこは自宅から見えるので、なんとなく愛着があるのだ。
ごく浅い足跡を残しながら、固い雪面を緩やかに快適に下る。真の谷から直登の辛さとはエライ違いだ。懸崖からは灰色の空の彼方に、遠く御在所岳のシルエットまで見えていた。当然至近の藤原岳はくっきりと見えている。ここから眼下にうねる真の谷を眺めるのは何度目だろう。いつ見てもこの高度感はいいものだ。足元には自分以外、誰の痕跡もない。今日の奥の平は独り占めかとほくそ笑む。
さて次は何処へ行くか。奥の池はどうなっているか見に行こう。奥の池と思われる場所は完全に埋まって、脇から木がにょきにょきと出ている。やはり池は水があってナンボのものだ。同じ凹地なら真っ白なスリバチになるドリーネのほうが見栄えがする。その一つである青のドリーネは、斜面にちょこんとある潅木が殆ど埋まっていた。そして底に向かって風紋が渦を巻いている。風の動きが目で見えるとは素晴らしい。陳腐な言葉かもしれないが、自然が描いた芸術である。
横に回ると雪面に足跡があった。どう見ても今日のものだ。赤穂浪士なら「まだぬくい」と言うところだが、雪がぬくい訳がない。ワカンとアイゼンを二重履きしているように見える。くそー、先客があったか(後に長谷川氏と判明)。しかしこの見通しのよい中、姿を見かけなかったのは不思議だ。もう下山したのかもしれない。
ここから西へ出た懸崖は見晴らしが良い場所だ。ボタン岩、丁字尾根、天狗堂などが望め、ボタンブチまで行く必要がない風景である。丁字尾根には真っすぐに正対することになる。今日は樹氷がないが、以前びっしり樹氷が付いた幻想的な尾根を見下ろし、大いなる感動を覚えたことがある。それにしてもこの尾根、鯨の尾によく似ている。
そのとき全く期待していなかった日が差した。悪化の一方だと思っていたので面食らった。日の当たる場所や青空はめまぐるしく移動していく。こうなったら例の場所へ行く値打ちはある。登るのが面倒だからやめようと思っていた、展望の定番奥の平南峰(1230m)だ。
登りにかかったら足に違和感を覚えた。筋肉がピクピクしている。いかん、つりかけている。やはり真ノ谷からの直登がダメージを与えたのだ。「そんなヤワな足に育てた覚えはないぞ」 と訳の分からないことをぼやきながらストレッチをする。
せっかく上がった南峰だが、また日が翳ってきた。数打ち方式で何枚か撮影する。樹氷がないのが残念だが仕方ない。そのとき突風が吹いて、置いてあった地図と手袋が飛ばされた。手袋は何とか取り押さえたが、戻ったらソフトケースに入れた地図がなくなっていた。どちらの方角に飛ばされたのか、捜索も空しく見つからなかった。文字通り、飛んだ失態だ。GPS用のマップポインターも一緒に入れていた。それはまた買えばいいが、細かく書き込んだ竜ヶ岳・篠立合成地図がなくなったのは痛い。どなたかまた拾ったら連絡ください。
南峰にいるうちに足は治ってしまった。さて、そろそろ下山するか。死ぬほどしんどかった斜面も下りはあっけない。泥が滑る無雪期より、はるかに楽である。固い雪に踵をぶち込んでいけば負担がかからない。また青空が覗いた。タイミング悪し。12:45 ドンピシャでテン場に着く。左に大きな尾根と谷があるので、デタラメに歩いてもここに着くようになっているのだ。休憩。
トラバース道から白船峠へ登る。下りで楽を覚えた足がストライキを起こして全然捗らない。私の冬用登山靴は右足の小指側が少し狭くて当たる。これは馴染んでも変わらない。だから右が谷側になるトラバースが長く続くと痛くなってくる。ここにはワカン跡があったが、殆ど風化して見失いがちだ。足の置き場の役には立たなかった。それと疲労が重なって峠まで45分を要した。峠には行きになかった足跡が、荷ヶ岳に向かっている。スノーシューのようだが、無駄になったことが口惜しくて履いたのだろうか。私も一日中ワカンをぶら下げていただけである。
真ノ谷から吹き上げる風を避け、白船峠の向こう側へ腰を降ろす。食べ残しのサンドイッチを頂く。温かいお茶を飲んで一服する。ああ、生き返るなあ。それも束の間、なんだかお尻が冷たくなってきた。防水のはずのオーバーズボンなのに濡れている。往路の奥伊勢谷で、ゴミだらけの谷を尻セードしたので破れたのかもしれない。このズボンも古いので繊維が劣化していることもある。リペアシートを張ればまだ使えるだろう。
ここから往路を忠実に帰ろうと思っていたが、冷川谷源流のスロープを見て気が変わった。何もトラバースなんかしなくても、谷を下ったほうが効率が良いと読む。軟雪の谷はダメだが、今日の雪ならいいだろう。どうせ濡れているのだ、穴のあいたズボンでそれ滑れーと飛び込む。これがほんとの破れかぶれ。
予想通り快適で、連瀑帯も雪に埋まっていて難なく通過。ちょっと苦労したのは雪が柔らかくなってきた下流であった。時折踏み抜く。これは時々抜けることを予想していないと、捻挫や骨折の原因となる。やがて雪も疎らになり、滝を巻いて林道に降り立った。掲示板の登山届のことを思い出して、少しめくってみる。長谷川さん、杣人さん、マヨさん、私、その後全然増えていない。
駐車場に着いたのは3時05分。雪の状態さえ良ければ、普通の体力でも行けることが分かった。こんなことならもう少し奥の平でゆっくりしてくれば良かったと思う。しかし先ほどから雪がちらつき始めている。帰りのミルクロードは横殴りの雪になり、西の山々はもうすっかり姿を消していた。やはり、いい見切りだったのかもしれない。「山を畏れよ」。これが安全登山の基本である。今夜の雪で私の痕跡はあとかたもなく消え、奥の平はまた新しい装いで客人を待つのだろう。