源ニ郎岩から土倉岳 05.09.11
源ニ郎岩とは茶屋川の支流、木滝と蛇谷のほぼ中間に位置する大岩である。高さは河原の基部から30m以上あり、10階建てのビルに匹敵する。ただし上部へ行くほど細くなるので、ビルという感じではない。巨大なオキアガリコボシといった全容である。源ニ郎岩は古い絵図を見ると右岸左岸を含め、この付近一帯の地名にもなっている。このように特徴的なシンボルだが、密集する枝葉で上部が隠されているため、気付かずに通り過ぎてしまう。奥村氏の絵地図にも記入がない。今日はこの岩の上に登り、そのまま土倉岳へ行って周辺を探ろうという計画である。
石榑峠の上り下りと茨川林道で手の皮がむけるほどハンドルを回し、久しぶりの茨川に到着した。実に三年ぶりである。終点にはダンプカーや重機が置かれ、地形が変わっている。地蔵さんのあった墓地跡はなくなったのだろうか。二年前、名大小屋を派手なブルーに塗装したと末岡氏から連絡をいただいたが、それも今日はじめて拝見する。ほう、これがそうかと筒井さんの生家であった名大小屋を眺める。氏によればペンキを買ってきた学生の名からミネヨシブルーと言うそうな。現物は想像したほど異様な感じではなかった。写真で免疫ができていたからだろうか。今日はヒルが怖いので立ち寄らずにおこう。
2003年秋 茨川名大WV小屋改修の様子(写真提供:末岡氏) 広く浅い茶屋川の流れ
茶屋川はやや白濁した水が流れている。水勢は強い。これより上流は安定した道がないので渡渉も必要だ。ならば初めから川に入ったほうが気楽だ。しかも川の中ならヤマヒルにやられる心配もない。
集落跡前にあるトチの大木は沢山実を落としていた。神社を過ぎると川はS字を描いて蛇行する。砂礫が堆積して広く明るい河原だが、倒木で荒れた場所もある。大徳念防という支流を過ぎると水が澄んできて、木滝辺りでは素晴らしい透明度になった。ただピンクのビニール紐が七夕飾りのようにぶら下がっているのには閉口する。それならまだ「木滝出合」と書いた道標でも付けたほうが、よほど登山者のためになる。
源ニ郎岩に到着し、河原で登山靴に履き替えながら取り付き点を探る。表からの直登はどうあがいても無理である。前後の土手も切り立っているが、少し上流の岩場が登れそうである。濡れたシューズを収納して重くなったザックに引かれながらも、つかめるものは何でもつかんで登りきった。源ニ郎岩の背後はすっぽりと斜面の土に抱かれて、頂の部分が少し出ているだけである。もっと下流側から土手を上がってくれば安全で楽に到達できることも分かった。
頂部は目の前にあり、段差も殆どない。しかし登れないのである。なぜかと言えば正面にアセビなどの潅木が密生して、頑として侵入を阻んでいる。横へ回ると目の眩む絶壁なのでこれも不可である。仕方ないのでカメラをポケットに入れ、ザックや帽子を置いて匍匐前進でヤブを突破した。
岩の上は6畳くらいあろうか。しかし傾いているので安穏ではない。這って首だけ岩から出して下を見る。茂る枝葉が幾重にも覆い被さり、川面が殆ど見えない。これでは下から仰いでもよく見えないのは当然だ。視線を上げると左前方に天狗岩が見えている。今朝は山が全く見えない曇天で、遠望はあきらめていた。やはり来てみないと分からないものだ。いつの時代か定かではないが、この辺りに山仕事の声がこだましていた頃、源ニ郎さんもここで天狗岩を仰いだのだろうか。
源ニ郎岩の基部を横から見る 源ニ郎岩頂上 下を見ると足がすくむ 前方には藤原岳天狗岩
さてここから土倉岳東尾根の先端、944m地点まで登ることになる。ものすごい傾斜であるが、登れないと言っては植林した男たちに笑われる。しかしあまりにも登りにくい。地形図を見ると木滝出合から微かな尾根が登っている。下流側へトラバースしていくと尾根に出た。ここには植林道があった。一升瓶や弁当のカラなどが散乱している。下刈りしたのは切り口から見て、そう古くはなさそうだ。この尾根は登れど登れど植林ばかりだ。750mで突然傾斜が緩んで方角を失う。しかし地形図を見ると現地が容易に特定できる場所である。左折して緩やかになった尾根を更に登る。途中にシートを被せた草刈機とチェーンソウがデポしてあった。この先も植林は続き、期待外れの尾根だ。しかしどういう訳かヤマヒルはおらず有難い。
ちょっとアゴが上がったころ、前方が明るくなって鉄塔が見えてきた。R194に着いたようだ。樹木がないので東側の展望が一気に広がる。藤原岳や竜ヶ岳三兄弟、南には遠く綿向山が三角頭をもたげている。ここから直接P944へ行くよりも、巡視路を使って頭陀ヶ平方向にある次の鉄塔を経由した方が楽そうである。R195へ出ると白い石灰岩がガラガラする御池岳が姿を現す。ピークにあるL197には立派なヘリポートがあった。せっかく深山に来たのに人工物ばかり見せられて、ちょっと興醒めである。しかし資材を運ぶのにヘリを使わなければならないほど山深いとも言える。
植林オンリーの尾根だが手入れはされている 最初の鉄塔から藤原岳西尾根を望む 鉄塔広場から頭を出す御池岳
尾根を西に入ると一気に雰囲気が変わった。ブナが点在する雑木林で、足元にはイワカガミがびっしりと這っている。植林と鉄塔ばかり見てきたので、ようやくここで気分が安らぐ。山とはかくありたいものだと勝手に思う。尾根歩きを楽しんでいると、やがてノタノ坂方面分岐の三叉路に着いた。ここから先は何度か歩いた道である。ブナを見ながらの稜線漫歩という印象が残っている。しかし思ったより登りがきつくてしんどい。なるほど、今まで下山にしか使ったことがないからである。登りきった広場が土倉の山頂で、南端にある三角点付近は切り開かれてすっかり明るくなっていた。
鉄塔から西は二次林の尾根 ブナを見つつ快適な旅
本日の目標は源ニ郎岩に登ることと、未踏の土倉岳西尾根と南尾根、池ノ谷のトレースである。苦心の末考えたルートが土倉岳北の鞍部から丁字尾根までトラバースし、石楠花ピーク手前からいったん小又谷源流へ下りる。そこから接近した土倉岳西尾根へ這い上がり、三角点へ戻る。それから南尾根を下降して、途中から左折し池ノ谷へ降りると言うもの。図に描けばあまり美しいルートとは言えないが、土倉岳の十文字斬りである。その後は小又谷の下降とノタノ越が待っている。鳥瞰図は下記の通り。
土倉岳北のコルから御池岳を見上げると、タンコブ三兄弟が盛り上がって見える。左からボタンブチ、幸助の丘?、ボタン岩ということになる。今日はテーブルランドはお預けとして、左へトラバースにかかる。ここには踏み跡があるが、途中で下りすぎてしまい危ないことになった。ミニ尾根には森の妖精のような赤いキノコが可愛い。紅天狗に似ているが何だろう。源流右俣の斜面からは水が噴出している。水源なので腹いっぱい飲む。ここにはアケボノソウやトリカブトが咲いていた。更に進み、以前丁字と間違えて下降した尾根を越えると本物の丁字尾根だ。
森の妖精 小又谷源頭のアケボノソウ 丁字尾根を下降する
ブナを眺めつつ下降して権現平で昼食とする。いつぞやここで御池杣人氏の歌に敬意を表して、ブナにミルキーをお供えしたのだった。その秋に第一回ミルキーあんぱん吟行が催された。今日はだれもいない静かな広場。大きな嵐はなかったはずだが、太い枝が折れていた。地面にはブナの実が沢山落ちている。今年は豊作のようだ。その傍らで1cmほどのインスタントラーメンの欠片を、集まってきたアリが担ぎだした。目ざといものだ。時間的に昼寝をする余裕もなく、食後直ちに行動を開始する。
石楠花ピーク手前まで来ると、小又谷源流はちょっと下りるだけだ。土倉岳西尾根は中ほどで「←」の形になっている。その矢がここへ下りてきているので、登り返しの良いルートである。左の小谷を登っても良い。地図では僅かな登りだが、昼食後なので息が上がる。西尾根に上がるとブナやミズナラの美しい林だった。小谷を巻いて左へ緩やかに登る辺りは素晴らしい。樹間から竜ヶ岳方面が見える。地面にはやはりブナの実が多い。尾根が細くなり勾配がきつくなる。登りついた所は土倉直前の地図に現れないピークであった。
丁字からいったん小又谷へ下りる 土倉岳西尾根を登る ここにもブナの実がたくさん
雲行きが怪しくなり、舞い戻った三角点で休憩する間もなく南尾根を下降した。けっこうな勾配なので、木をつかみながらブレーキを掛ける。間もなく地面に真っ赤なものを発見。美しいタマゴタケだった。この派手な色を見れば、誰も警戒して食べてみようとは思わないだろう。写真を撮り、出発しようと思って顔を上げると尾根の右に大木があった。奇妙な枝ぶりにブナではないと感じたが、ブナの葉を付けている。腕を回してみてかなり太いと思った。帰ってから測ろうと思い、細引きを回して目印を結ぶ(巻尺ではないので正確ではないが、周囲約240cmあった。蛇谷左岸尾根のものと同等かやや太い)。このブナは谷側に豪腕と言いたいような太い枝を張り出し、奇妙奇天烈な形をしている。
細引きを回している間に恐れていた雨が降り出した。空は明るいのでにわか雨と判断して、豪腕のブナの下で雨宿りさせてもらう。
立派なタマゴタケ成菌 かわいい幼菌 豪腕を持った太いブナ
920mで尾根は二俣になり、池ノ谷へ下りるために左へ行く。植林のつまらない尾根になってきた。草むらからマムシが顔を出して肝を冷やす。池ノ谷が見えてくると急勾配になり適当にトラバースするが、慎重にやらないと危ない。古い地図を見ると池ノ谷は河倉越えのルートになっているが、これを道と言っては褒めすぎである。ひどい荒れようで、ちょっと外すと泣きたくなるようなへつりが待っている。ときおり山中にもあったピンクのテープが下がっているが、どうも植林関係者の目印のようである。単独のときは殆ど休憩しないので疲労も出てきた。唯一の見所は谷の中ほどにある二条の滝だ。落差は約7mで水は落ち口の中央にある岩できれいに左右に振り分けられ、滝壺で再度落ち合う。崇徳院の滝とでも言おうか。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
ようやく緩やかで歩きやすくなると小又谷との出合である。堰堤を右から巻いて谷沿いを歩くが、非常に悪い。道はいくつもある堰堤で寸断されたのだろうか。昭和46年の山渓アルパインガイドにも池ノ谷と小又谷は踏み跡も消えがちとある。自分で歩けるところを探すしかない。もはや疲れてきたし風情も感じられないので、谷を捨てて右岸上部にあるはずの林道に這い上がる。ああ、楽なことよ。この林道は何処まで伸びたのだろうか。上から見下ろす支流の桂谷はドミノ倒しの如く堰堤が立ち並び、風情も何もあったものではない。膨大な赤字を抱える日本国に、よくこんな余裕があるものだと思う。
さてここから最後の難関ノタノ坂である。標高差は200mほどだが、上部がきつかった記憶がある。はたして疲れた体にはかなりこたえた。肩で息をしながら喘いで登る。しかし休めない。何となれば先ほどから地面にピョコピョコ頭をもたげた生物がいるからだ。とうとうお出ましになったが、今までいなかったのが不思議なくらいだ。高度計をカウントしながら自分を励まし、息も絶え絶えに登りきった。君ガ畑からの帰り道、かつての茨川の元気な子供たちなら、我先に駆け上がった道だろう。
池ノ谷と小又谷の出合 足元には噴水を思わせるホトトギス ノタ坂入り口
ところで住友山岳会「近畿の山と谷」には 「この地方では萱、笹などの茂った山上の台地をノタと称する」とある。だからノタノ坂はノタのある坂の意で、「ノタの坂」が元である。助詞の「の」がカタカナになったのが現在の名前だろう。あるいは単に「ノタ坂」でもよい。君ガ畑からノタ坂を登らず 「左へ谷を遡れば、伊勢の藤原村へ越す間道・・・」とあるのは今一部を歩いてきた河倉越のことである。この白船峠を越えて坂本へ至るコースは、平面で見れば直線的で無駄がないが、地形的にはかなり厳しいものがある。昔は荒れていなかったとはいえ、花嫁行列が通ったなどという話は本当だろうか。
ノタノ坂の本当の風情は東側にある。あと二ヶ月足らずで錦繍の尾根となるが、いまでもなかなか良い味がある。登山者はそうした悠長なことも言えるが、茨川で暮らしていた人々は西へ出るにも東へ出るにも坂を登り、坂を下った。娯楽としての登山ならいいが、日々の生活となれば想像を絶する苦行である。まもなく夕刻の茨川へ着くのだが、もし車のバッテリーがあがっていたらと想像するとぞっとする。携帯も通じず、今から治田峠を越えて新町まで歩くとなると遭難寸前である。山奥の暮らしはやはり厳しいものであっただろう。
やがて東風谷へ着いたが登山道を行くと渡渉があるので、谷沿いに歩いて小さな橋から林道に上がった。靴やスパッツに付いた無数のヒルを丁寧に除き、ソックスを脱いでみると足首は奇跡的に無傷だった。実はヒル避けグッズを忘れてコンビニで代用品を探し、ミントの口臭消しを買ってみた。源二郎岩で足にスプレーしておいたのが効いたのだろうか。
車のバッテリーは元気よくセルモーターを回し、エアコンの冷風を浴びながら何事もなく家路についた。これが文明の恩恵なのか、人間の堕落なのか、容易に判断は付きかねる。