惟喬親王御陵から日本コバ    2012.06.24


 綿向山のブナを計測に行こうと思ったら、大雨でスカイライン土砂崩れ通行止め。開通したばかりなのにまたかと思う。色々変更先を考えるが、未踏の日本コバ北斜面を登ることにした。石榑トンネルは大いに活用するべし。

 北面コースは未踏なれど、君ガ畑の帰りに筒井峠付近は何度か偵察済みである。サティアンを思わせる使途不明の木造建築群、生徒のいない学園、荒れ放題の親王陵。ウサン臭さ満載のミステリーゾーンで、こういう雰囲気を私は嫌いではない。親王陵駐車場へ着く前に大谷山林道に入ってみる。特にゲートもなく侵入は可能だが、舗装に穴があいてひどい状態だ。高級車なら無理。私のポンコツならどんどん登れるが、それをやっちゃあお終いよ。地図を見る限り日本コバ外輪直下まで通じている。もはや登山ではない。

    惟喬親王座像

 引き返して親王陵の駐車場に停める。すごく広いが、ここに車がいたのを見たことない。登って行くと屋根だけの建物、水の出ない蛇口、近づくのも怖いトイレなど、利用されている形跡はない。上は湿地帯なのでさっさと尾根に乗った方がよい。やがて林道に飛び出す。ここは未舗装だがエグレもなく良い道だ。入り口がボコボコなのは一般車を阻止する偽装工作なのだろう。良い手段だ。

 林道をのんびり歩いていく。ファミリーハイキング向けコースだ。道端にはコアジサイが花盛り。最初写真を撮ったが、延々とあるので食傷気味だ。やがてモミの大木があった。林道にGPSは不要だが嬉しくて覗いてみる。前のGPSは1999年に買った。文字通り前世紀の遺物だ。恐ろしく感度が悪く、地図など出るはずもない。緯度経度の数字を読み取って25000図にマップポインターを当てて位置を割り出す訳だ。この作業が面倒なので、よほど困らない限り使わない。ログ採り専門だ。

 しかし新しいGPS(オレゴン450)はリアルタイムで地図上に自分の位置が出る。これじゃあ身もフタもないわなあ・・・と思う。今頃何言うてんねんと思われるだろうが、13年ぶり更新の率直な感想だ。これを持っていれば迷いようがない。人に見せてもらったときは画面が見難いなあと思ったが、それは唐突に現在位置を見たからで、最初から追っていれば問題ない。ただ広域側にしていくと見辛いので、地形図を併用した方が便利。

    歩き良い林道に出る                  モミの大木              コアジサイが花盛り

 林道は途中からまた舗装されてますます良くなってくる。しかし一応、関係者以外乗り入れ禁止となっているので念のため。途中に「盤石の丘」なる展望台があるとの情報を得ていた。分岐から登ってみる。「ありがとう」と書かれた札があちこちに落ちている。誰が誰に言っているのだろう。登ってみると想像以上にいい所だ。霊仙山付近の重畳たる山並、湖面に掛かる靄の向こうに湖西の山並みが見える。御池はマツ林に隠れるが、反対側には竜ヶ岳三山や岳、割山、釈迦ヶ岳付近がよく見える。何せスカイツリーより高いのだ。盤石という名の由来は何なのだろう。点在する大石のことだろうか。盤石とは程遠い我が国の政権を思って涙する。板を渡したベンチで一休み。

          盤石の丘                    琵琶湖を眺める                 霊仙山(右端)付近の山

 この先林道は崖崩れで、もはや用をなさない。終点から植林の急斜面を登ると程なく政所道と合流した。登山道をチンタラ行くと衣掛山の表示。これは偽物だ。更に進んで本当の衣掛山を踏む。戻って藤川谷方面へ下りていく。10年ぶりに「奇人の窟(岩屋)」を見るためだ。ハッキリした位置は覚えていないが、登山道沿いにあったはず。看板があった。回り込んで入り口に着く。ザックをおろして穴に下りると、いきなり目の前をバサバサ何かが飛んで驚いた。目が慣れると大量の蝙蝠が天井にぶら下がっていた。怖くて奥へ行けない。広さは13m×8mほどか。天井は自然の穴にしては真平らである。

       奇人の窟入り口                  洞窟のコウモリ                      同 拡大

 少し戻って適当に藤川谷へ下りた。川沿いに源流を目指す。徐々に湿地帯となってくる。雨上がりなので余計にひどく、歩ける場所を探すのに苦労する。10年前の新ハイで昼食した場所は何処だったろう。良く分からない。昼食をクルマに置き忘れて、皆さんに世話になった思い出がある。その時は雪があって「衣掛の泉」がよく分からなかった。改めて探してみるが、よく分からない。モリアオガエルの卵塊がある水溜りを、多分これだろうということにしてお茶を濁す。

         藤川谷源流                     衣掛の泉跡 ?

 時間は早いが、お昼にするならここしかない。平坦な草原の中を滔々と川が流れている。日本コバ独特の地形だ。シートを広げてくつろぐ。平地も水も木陰もある。言うことなしだ。ただ虫が寄ってくるのが玉に瑕。食後GPSの軌跡をチェックする。予め入っている登山道の赤線が正しくないことが分かる。見た限り他の山でもそうだ。エアリア並みの精度と思えばよいが、それでも目安にはなる。さてもう少し進んで尾根へ上がれば新開道である。しかしこれを帰ると延々と車道の上り坂が待っている。やっぱ往路を戻ろう。

 帰路も盤石の丘に寄る。琵琶湖付近の風景が変わっているかもと思ったのだ。しかし残念ながら朝を越える風景ではなかった。このまま下山すると時間的に早すぎるのでベンチの上で昼寝する。いい心持ちだ。本当に暫し眠ってしまった。起きてまた地形図を見る。このまま林道を下るのもつまらない。盤石の丘から北に延びる尾根を下ることにした。

 尾根は予想外にヤブもなく快適だ。ここにも「ありがとうございます」の札がたくさん落ちている。ありがとうの大安売りだ。いったい何なのだ???。尾根の末端はそのまま林道になるほど甘くはない。やがて谷に下りていく。そこから植林を這い上がり、激ヤブを抜けてようやく林道に出た。

    謎の「ありがとうございます」           ありがとう尾根の末端は谷

 惟喬親王御陵を再度観察する。小さな祠のまえに屋根だけの広い場所がある。休憩所にしては板の間が広すぎる。三間四方ある。もしかして能舞台? 隣にある社務所のような建物を覗きこむと「惟喬親王芝居語り」と書かれた看板があった。やはり、この舞台で催しをするようだ。しかし社務所は最近使ったような形跡はない。

 駐車場にはやはり私の車だけ。時計を見るとまだ時間的に早い。近くにある花平という洒落た名前の山に登ることにした。一応鈴鹿三百山なので帰りの駄賃だ。エアリアに好展望とあるが、道は載っていない。道路の擁壁の手前から取りついたが、サルトリイバラのひどいヤブだ。全然高度が上がらない。もしかしてこの先に登山口があるというオチか? しばらくすると、やはり県道から上がる斜面があり、無駄な苦労をしたことが分かった。尾根上に赤テがあり、来る人もいるのだ。山頂は三角点と山名表示の札があったが、花も展望もなかった。騙された。

     筒井神社正面の舞台                 花平の三等三角点

 帰ってから筒井峠付近のことを調べる。サティアンのような建物は宗教団体「ありがとう教」の本部らしい。そんなものは初めて聞いた。教祖は「ありがとうおじさん」と呼ばれ、親王御陵の清掃や付近の山林整備をしているらしい。それで盤石の丘付近のありがとうプレートの謎が解けた。

 皇学園の創始者は原田某という書道家である。惟喬親王の夢のお告げがあって、この地に道場を開いたということだ。この人は書道界の異端児と呼ばれている。詳細は知らないが敵の多い人のようだ。どうしてこの地には、こんな怪しげな人たちが集まるのだろう。現在学園としての機能はなく、市に寄贈され、「木地師やまの子の家」というそうな。しかし有効に活用されている気配はない。

 惟喬親王座像は立派なものである。しかし発願の文を読んでも突飛なことが書いてあって、なんでこの施設を造ったのか理解できない。むろん惟喬親王自体は胡散臭くはなく、実在の人物で清廉の人であったという。第一皇子として生まれながら母親が紀氏であったため、母親が権勢を誇る藤原氏の出であった惟仁親王に皇位継承争いで敗れたのである。小椋庄ではこの地に幽棲せられて、ロクロ技術を教えたという伝説である。しかし正史ではその事実は確かめられない。そこが胡散臭い。

 で、この三者は無関係ではなく、平成15年に行われた地元自治体主催の惟喬親王祭は「ありがとうございます祭り」となり、ありがとう教が深く関与していたことが分かる。そして関係者の宿舎には皇学園が使われているし、御陵の石碑「敬天愛人」は原田氏が書いたものである。やはりミステリートライアングルだ。