国位・高昌鉱山跡を訪ねる    05.06.26

 釣竿と魚篭を身につけた人は、私の5mほど先の登山道を息せき切って歩いていた。二人とも沈黙を守りながら、着かず離れずの距離でひたすら歩く。登山道に限らず車の場合でも、背後にぴたりと着かれるのはいやなものだ。自分が不快に思うことは人にすべきではないが、私は今それをしている。急ぐ旅ではないが、今この微妙な均衡を破ると 「あいつ、とうとうバテたな」 と思われるのがいやなのである。ただそれだけの子供じみた理由で、暑さを我慢して沢谷峠へのトラバース道をわき目も振らず歩く。相手はなかなかタフな人だ。

 道が水平になって少し開けた場所に出た。とうとうこの心理戦に耐え切れなくなった釣り人は立ち止まって 「暑いですねえ」と声を掛けてきた。そうなれば何の障害があろう、私も神崎川の釣りの話ならお相手できる。今度は話をしながら歩くが、ペースは変わらない。バカみたいにひたすら歩いたので、あっという間に雨乞岳分岐に着いてしまった。大人げないことをしたものだ。ここで釣り人と別れ、ひと息入れながら地図を見て行動を考える。クラ谷源流も久しぶりに歩いてみたいが、やはり国位鉱山を先にやろう。

 国位鉱山跡についてはHPを検索しても殆ど出てこない。中島伸男氏の本にも御池高昌鉱山の話のついでに記述があるだけで、現場調査報告は何も書いてない。五代アイ、市橋桂三など古い名前が登場する国内鉱山一覧にも名称がない。位置を明確に示した資料は皆無であり、自分の足で探すしかない。
 コクイ谷は釣りも含めて20〜30回は入っていると思うが、このような渇水は初めてである。上流は安定した道がなく何度も渡り返して通過するのが常だが、今日は渇水で谷中を歩くこともできる。花はコアジサイの独壇場だが、タツナミソウも僅かにある。

       コアジサイは今が盛り              沢谷出合の滝を上から覗く            渇水のコクイ谷

 谷の中ほどに飯場跡がある。これは登山道沿いなのでご存知の人も多いだろう。昭和初期大きな屋敷跡があった(近畿の山と谷・住友山岳会)というのはここだろうか。ドラム缶、湯たんぽ、食器類が転がっている。よく見るとトロッコの車輪もあるので炭焼きではなく、鉱山関係者のものと分かる。ここを中心に右岸斜面を登って探ってみる。一段上には石垣のある平坦地が広がっている。落ち葉に埋もれているが、石の階段まで付いている。どうも住居跡のようだ。

 更に上部を探るが急斜面で容易ではない。中島氏「近江鈴鹿の鉱山の歴史」177ページに、明治36年生まれの老人からの聞き書きがある。
 「国位鉱山はコクイ谷出合からかなり登ったところに坑口があり、鎌ヶ岳の方向を目指して掘っていた。この辺りに墓の跡があるが、鉱山で亡くなった人のものだ」
 このように曖昧な表現ではあるが、坑口がどこかにあるはずだ。鎌ヶ岳は南方向にあるので、坑口はどこかの尾根の北面にあると思われる。ただ国位鉱山は他に比べて閉鎖が早い(大正3年)ので、もはや埋没している可能性もある。急斜面をしばらく探ったが広範囲に歩き回る体力がないので、結局成果がないまま疲労であきらめた。

   往時をしのばせる生活用品          茶碗を洗うとちゃわんと新品になった         左に階段がある屋敷跡?

 少し離れた場所の斜面に焼き釜跡と思われる石組みがある。2001年に御在所岳西峰へ登るときに見つけたのだが、今度はそこへ行くことにする。ここは谷から見えないので、知らない人もあると思う。直径約2m、深さは落ち葉があるので分からないが、おおよそ1mの円形の釜が数個並ぶ。その上部には棚田のように石垣がある。
 黒川静夫氏の鉱山本に治田鉱山の焼き釜の説明がある。それから類推すると炭窯ではなく、鉱石を焼く釜とみて間違いないだろう。更に上部、小尾根の先端に石組みのある狭い平坦地がある。登ってみると見晴らしが良く、高昌山と神崎川にせり出すP872が望める。住居か事務所があったのだろうか。更に上部は以前登った限り何もなかった。面として探るには体力が要るだろう。高昌鉱山も行きたいので、これくらいで切り上げる。

   焼き釜が数個並ぶ国位鉱山跡             高台の住居跡?             高台から見る高昌山とP872(右下)

 喉が渇いたので七人山から落ちる小谷で水を汲んでみた。透かして見ると渋色をしていたので捨てた。雨の直後もダメだが、渇水でも水質が悪い。買ってきたペットのお茶は500ml一本だけで、1日はもたないだろう。猪子谷まで我慢しよう。コクイ谷出合は水面が低下したので、足場の丸太が宙に浮いていた。石だけで渡れる。登山道に乗らず河原を歩く。出合北から一段上の台地も広くて、生活用具が散乱している。高昌鉱山労働者のものだろう。ここにはガイシも落ちている。「国位鉱業場ヨリ御池ニ電話ヲ架設シ・・・」 に使われたものか。あるいは電力を使っていた可能性もある。

 途中で登山道に上がる。水量が少ないとは言え、渓流沿いの緑はやはり清々しい。川が北へ蛇行するところが渡渉点であるが、その手前に小さなミラーが立っている。車両が来られないところにカーブミラーは微笑ましいユーモアだ。小動物の衝突避けか。流れを渡ろうとすると登山者が一人河原で涼んでいた。タバコを吸っておられたので火を拝借する。ライターを忘れてきたからだが、普段吸っていないのでさほど苦痛ではない。
 対岸右手に大きな広場があり、東端には石垣が見られる。何に利用されたのかは分からないが、僅かにカラミが落ちている。ビン類が散乱しているが、他の生活用具はない。いずれにしても高昌鉱山の施設の一部だろう。

       茶碗の行列                  ガイシも落ちていた               ほほ笑ましいミニカーブミラー

 ひと登りして荒れた道をトラバースすると高昌鉱山跡。何の興味もなかったころ一度通過しただけだが、改めて現場を見ると味わい深い。経過年数の割りに保存状態はよく、あまり木も生えず石垣もしっかりとしている。しかし欠けたトロッコと滑車の赤錆が星霜を物語る。向こうの杉木立と階段跡は神社でもあったのだろうか。このような近江からも伊勢からも道のり遥かな深山幽谷に、大勢の人々が暮らしていたことは驚嘆に値する。
 暮らしと労働の痕跡は対岸上部にも続く。人工的な平坦地には、中にシロモジが芽を出すドラム缶、ナベ、車輪、一升瓶、欠けた茶碗などが見られる。傍らにギンリョウソウがひっそりと咲いていた。

 一見浮世離れした暮らしで羨ましい気もするが、実情は寿命を削る重労働だったようだ。しかも鉱山隆盛の裏には明治政府の富国強兵政策があったことは明白で、山奥といえど狭い日本に桃源郷はなかった。鉱山は所有者が次々変わり、金属相場によって消長がある。今ある遺構がいつ作られたものか分からないが、明治32年高昌鉱山精錬所は男56名、女31名が暮らしていた。明治末期には学校があり、大正中期に最盛期を向かえたそうだ。昭和に入ると芳しい記録はないが、徴兵で労働力がなかったのだろう。以前、大先達の愛知厚顔氏に頂いたのメールの一部を紹介しておこう。

 「昭和24年当時は登山者よりも炭焼き人ばかり 山で見かけました。またいまの鉱山跡は まだ建物もしっかり残され、残務整理の人が 住んでいて、アマゴの養殖などしていました」

 建物は御池鉱山のものと思うが、上記の時期が付近一帯の鉱山の終焉だったのだろう。

     フックの付いた滑車                 欠けたトロッコ車輪              今もゆるぎない見事な石積み

   中央は埋もれているが石の階段          ドラム缶と鍋とトロッコ                 ギンリョウソウ

 中島氏の本にある明治5年近江国物産図説の地図を見る。建物が描かれているのは現在地付近だろう。猪子谷上流沿いには坑口が点在する。五から七之敷があるはずだ。谷を登ってみる。溶解クズが散乱するボタ山の上に上がると視界が開け、御在所岳西峰が独立峰のように立派に見えた。この付近に比較的新しいテープが巻かれている。鉱山案内のつもりなのか、イブネ・クラシへのバリエーションのつもりなのか。何れにしてもまったく意味がなく、ただ見苦しい限りだ。

      カラミ(残滓)が散乱する           いかにも金属を含みそうな鉱石            赤茶けたボタ山

 更に登ると同じような赤茶けたボタ山が続く。登るにつれて背後に御在所や国見の全貌が大きく展開してくる。やがてヤブの中に穴を見つけた。タヌキの穴かと思ったが、よく見ると入り口に木組みのようなものがあって、半分以上埋まっているようだ。奥を観察しようと顔を近づけてハッとする。何と中から冷ややかな風が噴き出してくるのだ。最高に気持ちがいい。閉じた穴でもこんなことがあるのか、あるいは何処かに通じているのか。これが何番目の敷(採掘現場)になるのか分からないが、風穴になっているのは驚いた。傾斜が急になってきたので、今日はここらで引き上げとしよう。

     冷風を噴き出す坑口                 国見岳と御在所岳              住居跡に残る工作物(板)

 同じルートを戻って御池谷を渡る手前の広場で休息する。東雨乞と七人山の鞍部を越えて帰ろうかと思っていたが、国位と高昌鉱山の急斜面を歩き回ったので疲れてしまった。石垣の上にマットを敷いて昼寝にした。靴を脱いで横になると体が宙に浮くような気がした。暑いが気温は25度前後なので、行動をやめると涼やかな風に汗は引いていく。熟睡はできないが、うつらうつらしているうちに時間が過ぎた。

 長いコクイ谷を遡行し、鎌ヶ岳を拝むために沢谷で登山道と別れ右俣に入る。登りきったところが旧郡界尾根の偽沢谷峠だ。以前どちらが沢谷峠なのか、ひと悶着あったようだ。そんなこととは関りなく、鎌尾根を従えた山頂が姿良くそびえている。今の季節薄い靄が掛かっていることは仕方ない。
 写真を撮ったあと、左折してブナを観賞しながら帰途についた。峠の池にはモリアオガエルの卵があったが、水は僅かしかない。カエルも雨を待ちわびていることだろう。

      タツナミソウ             郡界尾根から鎌ヶ岳            沢谷峠の池  オタマがピンチ