BBSに登場した歌に対する講評     

御池杣人


あの日の山吟行は、歌人の創作にとって契機となったのか、佳品が登場してきている。


たはたはと 空にちぎれる しろもじの 梢の間に間に 雨乞の峰

 

そんなにも 高くなくていい そんなにも 花がなくていい イブネの時間

 

晩秋の 鎌尾根摘んで サルナシと 赤き君の 口に含みて

 

この三首は巴菜女の作品である。「たはたはと〜」とシロモジの黄葉、風、空を表現する見事さ。「そんなにも〜」の歌は、イブネの茫とした世界とそこに今いるといううれしさを「うれしい」という言葉を使用せずに表現できている。生きにくさの中に呻吟している子どもたちへのメッセージに通じる深さを見る。一転して「晩秋の〜」のなんという大きなスケールを伴う妖艶さ。今後の活躍が待たれる。

 

Pana Panaと 笹のさやけき 指をさす 二重の塔に 名も問い忘る

 

この歌は新人?田麻呂殿の作品。快晴のイブネにて人と巡り合い、遥か遠い名古屋のついんたわーを指さしながらの精神の高揚。澄みきった秋の風まで通り抜けていくようだ。

 

紅に 燃える山肌 足を留め 時間よとまれ 永遠にとまれ

 

拾わない 煩悩捨てなきゃ 進めない それでも思わず 拾う栗の実

 

この二作は郎女の、相聞パロディーを離れた作品。「紅に〜」には、自然の大いなる変転がかもしだす絶景の中に、たとえ人が小さな存在であったとしても、そこに確かに存在するということ。その確かさに注目したい。「拾わない〜」はどこかユーモラスでありながら、煩悩多き人間の性(さが)というべきか、秋の山行きの一こま。こんな調子の山行きの楽しさ。いずれもみな精神性の若さがあふれている。

こうみるとあの日の山吟行は鈴鹿の山歌壇?にとってまことに意味のある記念すべき日であったのだ。こうして回想しつつ、女流歌人の佳品を吟ずれば、一瞬空腹を忘れて、この長い夜もふけていくことよ。