nori様の颯爽たるデビューを祝して御池杣人が講評す

 

本句   五月雨を あつめてはやし 最上川    松尾芭蕉

本歌   花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町

山洒落を あつめてあやし noriの方 歌いにケロヨン ながめせしまに


現代語訳

  山にかかわっての洒落をあつめて、うれしくもあやしいほどの常識人だなあ、このnoriの方(尊敬語)様は(余も葉里麻呂もnoriの方様といい勝負の、相当にあやしい常識人であることは言うまでもない)。管理人解説にあるように、よくぞ奇想天外、驚天動地、トボケ具合の絶妙さをもって、歌いにケロヨンであることよ、何度もやってきた台風の長雨をうんざりながめていた間に。

 

      特に、「これやこの! 往きに買えるも 忘れては」など、その見事さとともに、かの吉本に通じるオタンチンさの勢いがある。思わず圧倒され、たじたじとなりそう。「ミス ユニットバス」を思い浮かべてしまうほどだ。

       だから、余のこれまでの「ミルキーあんぱん」のような堅実な歌の作風?さえも、noriの方様の勢いに引きづられてしまい、今回はこんな作品?を「歌いにケロヨン」となってしまった。

       しかし、御池百人一首のオタンチン・アンポンタン道の険しさに、なおもこりずに進まんとしている余にはありがたい刺激となっている。まことnoriの方様の歌を「ながめセシボン」であった。感謝じゃ。

      葉里麻呂がふれていないので、ついでながらといえば失礼か、{山路来て なにやらゆかし}と{山路来て なにやらかゆし}の置き換えのすばらしさ。すみれ草の{なにやらゆかし}は芭蕉でなくとも鈴鹿の同人にはおわかりのはず(過日、御池岳にまだ小さく咲いていた)。鈴鹿同人には山ヒルの{なにやらかゆし}もおわかりのはず(今年は御池でどれだけ献血したことか)。二つながら、そう、そうだよね、とうなずけるところ、わずか一字の置き換えから、ぐんと世界がひろがる。はたして芭蕉は{かゆし}を吟じていたか、つまり、山ヒルに血を吸われていたか、奥の細道をどなたか調べてちょうだい。

 

管理人解説

 「山洒落を あつめてあやし」は意味においても、韻においてもかなりポイントが高い。御池杣人氏も円熟期に入ってきたことを思わせる。ここで「あやし」が平仮名であることに注目。たしかに一連の奇想天外なる歌を作ったnoriの方様はちょっと怪しい。しかし歌に不思議な魅力がある。だからあやしいは「妖しい」でもあるのだ。

 現代語訳にある「台風の長雨」は一見歌の中にないように思われるが、ケロヨン様をながめるというシチュエーションは必然的に長雨である。お方様の作品をパロりつつ、昨今の空模様を詠み込む技術は見事。

しかし心外なのは管理人が御池杣人氏と同程度に「あやしい」とされていることである。管理人は人品骨柄、思想信条ともニュートラルかつ品行方正である。たとえ作風がほんのちょっぴり怪しいとしても、ものすごく怪しい御池杣人氏と程度の差は明確にされなければならない。ただ愛犬の死に慟哭しながら、同時並行的にアンポンタンな解説を書ける精神構造には自分でも少し驚いている。

やや話しがそれたが、この険しい道の門をたたく新人が現れたことは御池杣人氏とともに狂喜するしだいである。新人と言えど既に道場破り的な実力を身につけ、今後の展開は予断を許さない。

 


                御池杣人のお歌に感動して詠める

本歌   浅茅生(あさじう)の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき    参議 等    

      浅知恵の己がパロうた評すれど あまりてなどか頭痛にケロリン        nori 

現代語訳

 ない知恵をしぼって詠んだわたしのパロディ短歌を、尊敬する御池杣人先生が講評する歌を詠んでくださった。
しかし、あまりの巧妙な言い回しに頭をひねってこれはいったいどう返せばいいのだろう。
 あ、もうこんな時間やん!ケロリン飲んでさっさと寝よう・・・
しかし、風呂桶は見たことがあるけど、その薬は見たこともないのだな〜

管理人解説

 ノリピーさんの歌の傾向がなんとなく分かってきた。ハッとするようなうまい置き換えの中に、ひとつだけ世の中をナメたようなフレーズが入っていることだ。実際ナメているのかどうかは知らないが、これがとても可笑しい。最後に「頭痛にケロリン」ときて私はドテッとひっくり返った。この落差は「浅知恵の己が」があまりにも見事なため、いっそう際立っている。
 「あまりてなどか」とは自分の思いどおりにはいかない、手に余ると言う意味だが、今まさに「頭痛にケロリン」が手に余って困っている。どう評価したものかさっぱり分からないのだ。ただひとつ、確実に言えるのは「頭痛にバファリン」ではダメなことである。

 * この人を食ったようなネーミングの薬は、我が家の置き薬の箱に入っていた。デザインまで人を食っている。この会社(内外薬品)に就職すればよかった。

 


noriの方様への返歌  

 

本歌 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は   後鳥羽院

 

   人申す 一口ケロリン 味気なし パロ思う夢に ももや思いみな    御池杣人

 

現代語訳

 ある人が申している。頭痛に一口ケロリン飲むなど 味気ないではないか。パロディーをつくるようなオタンチンなことを夢にまでみるならば、「御池相聞五一首」第二七首のオタンチンさ

霜降れど 芋煮出にけり 我脳裏は ももや思ふと 人のとーふ迄    (近藤朝臣)

を思いみなされ。あまりのとろさに頭痛もとんでいくことであろうよ、と。

 

後世の注釈者

noriの方の、「ももや思ふと人のとーふ迄が私の目標です」とした文が当時の葉里麻呂のHPの記録に残っている。御池杣人はこの新人の発言に、よもやあんなオタンチンな歌を「目標」とまで言ってもらえるとはと、よほどうれしかったのか、あんぱんを食べまくったという。食べまくったのち、やっとお茶を飲みながら一息ついてあれこれこの返歌を作成していたらしい。あのとろい「ももや」の歌を、偉そうに「思いみな」などと詠んでいるのは、あんぱんの高揚の名残と解すべきだろう。一貫してシンプルー単純な人間だったようだ。

管理人解説

 「ももや思ふと」の歌は当時私を狂喜させ、三木のり平まで引っ張り出すに至った。noriのお方様が目標とするにふさわしい歌であり、あんぽんたん道の手本としても恥ずかしくない?出来栄えである。
 薬漬けの現代において、副作用のない頭痛治療の方法があれば朗報である。ただし「ももや」の歌の効能については実証例が少なく、厚生労働省の認可には至っていない。それどころか、この歌を見ると余計頭痛が増すという報告も多数寄せられている。効果のほどはスギヒラタケのように謎に満ちている。