読者投稿    緑水様

 

             朝夕に茄子とピーマン採り入れ  大地の恵み食するありがたさ

 

  この歌を字数にすると 五七四七九となる。定型的な歌にすれば

         朝夕に 茄子とピーマン 採り入れて  大地の恵み ありがたきかな

とでもなろうか。しかし頭から五七五七七など無視してかかる作風に、作者の大物ぶりを見る。字数ばかり整えて、自分の使いたい言葉が使えなくなっては本末転倒、自由律もいいだろう。やはり「食する」は外せない。

 形式は自分流でありながら、内容はすなお。題材も花鳥風月ではなく、増田八風を思わせる日常の生活に根ざした土の匂いがするものである。込めた丹精に応えてくれた野菜に対する感謝。「恵み」「ありがたさ」というものを心の底から感じられるのは、作者の人生経験の豊かさであろう。人は何度か辛い目にあわないと「生かされている」ことが分からない。茄子とピーマンが良い。言うことナス。

                                                   葉里麻呂

 

緑水さん。

辻凉一氏の『山の扉』(山人舎 2002年10月)では,R名で「風のさまよい人」として登場。鈴鹿の山の大きな先達の一人。僕の「やぶこぎ讃歌」には第2巻『広茫の山 御池岳 雫物語』に颯爽と登場の人。

僕の池探しを「面白い。俺もやってみよう」と当時は背丈を越す笹薮に余裕ルンルンで突撃された人。氏は僕にかつてこんな文を届けて下さったことがある。

 

何が因果の熱病か、今日もあの谷この尾根と、

吹かれ流れて風になる。

みどり葉すかす木漏れ日と、岩かむ水の激しさの

優しい君と厳しい貴女、山の女神の姿なり。

裸木に命やどりて芽吹きたつ

青嵐ふきぬけ 緑水あふるる

 

 この山行きの境地。ぼくの一つの範だった。これも『雫物語』に書いたことだけれど、緑水さんのやぶこぎでの以下の鼻歌?も、僕のお気に入りの歌で、僕もこの歌をうたいながらやぶに突撃をした。

天気のよい日は雨は降らんのよ〜、背を越す笹も木に登れば、行き先はあっちゃですと教えてくれるよ〜

そのお方が『鈴鹿百人一首』コーナーに登場。葉里麻呂のコメントは見事で二番煎じになりそうだけど、僕もコメントする。

第一首

葉里麻呂はこうコメントしている。

この歌を字数にすると 五七四七九となる。定型的な歌にすれば

朝夕に 茄子とピーマン 採り入れて  大地の恵み ありがたきかな

とでもなろうか、と。僕はこうする。

朝夕に 茄子とピーマン 採り入れて  大地の恵み 食する日々よ

大地の恵みを食する日々ーそのありがたさ。当たり前のことの尊さ、値打ち。土を耕すことのまったくない僕、心したい。

                                                   御池杣人


 

             雨とパソ 雲り菜園 晴れたら山ボヘ  流れるる旅路へ

 

これはもはや上の句と下の句の区別もない自由律であり、現代版晴耕雨読である。昔と違って生活がかかっている訳ではないので、晴れは山ボヘとなる。そのかわり新たに曇りが追加されて「耕」がそちらへ回っている。「山ボヘ」は作者固有の所謂、緑水語であろう。ボヘとはボヘミア〜ン♪と推測する。本来の意味は亡命生活が長くなり、アイデンティティーを喪失した人々であるが、この場合ジプシー、漂泊、放浪とでもなろうか。作者が山歩きをどうとらえているかがうかがえる。「流れるる旅路へ」は山旅を含む人生そのものを旅路と捉えたのではなかろうか。

 何にしてもうらやましい。わしもそういう生活がしたいのお。雲と一緒にあの山越えて 行けば街道は日本晴れ・・・ あんかけの時次郎のように流るる雲を道連れの自由気ままな旅に憧れつつ、今日もわしは6時に起きて仕事に行くのであった。キビシーイッ!(財津一郎先生風に)

                                                    葉里麻呂

 

第二首

 葉里麻呂のコメントに異論はない。もうこれは短歌の約束事、さらには日本語の約束事を越えている。だから、「第二首」とするのも正しくないかもしれぬ。しかし、「かもしれぬ」としたように、正しくないと言い切ることもできない。

例えば「雨とパソ」。パソとはなんじゃ。パソコンの略。勝手に略していいのか、という見解もあろう。だが待て。パソコンだってパーソナルコンピューターの略じゃないか。 「山ボヘ」もなんとなく伝わる。葉里麻呂のコメントの通りだろう。なんかいい響きの緑水語。

極めつけは「流れるる旅路へ」。現代文ならば「流れる」、古の文ならば「流るる」。それを「流れるる」と。しかし、こんな日本語ありませんというのもはばかれる魅力あり。これが「旅路へ」とつながっていくことの甘美なうつくしい響き。捨てがたい僕はこう解釈する。「流れ ルル 旅路へ」とも読めると。この「ルル」が「流流―るる」であり、流れて旅路へという自由な境地に響く。晴耕雨読の自由なうらやましい境地。そこに現代的な「パソ」を加味し、さらには「山ボヘ」の旅路へと流れ流れていく世界。その響きはまさに「ルル」「流流」なのかも。

「悠」という語はこういう世界にこそふさわしい。

                                                    御池杣人