鈴鹿百人一首PartV講評 補
御池杣人
葉里麻呂氏のPartVについて、主に内容面についてのコメントをしたが、パロディーとしての技法面について、補足しておきたい。
焦点を第六首にしぼる。このパロディーの命は、「あらし」が吹かずに、「おしり」を拭いたことにある。「あらし」を「おしり」に変えただけで、意味内容から、そのもつ風情・余韻等、およそ180度もの大転換を遂げ、まったく別の世界が(しかも世にも珍妙な)が登場することとなった。
パロディーの面白さ、奥深さとともに、葉里麻呂の力量とかかる発想をする感性がなみでないことを知らされる。
いろいろといじり回して、苦心惨憺のことばいじりに終わってしまう場合が少なくないが、実質わずか3字(地名はここでは本質ではない)をいじっただけで。技法的にはかかるパロディーは(内容上の意味の大転換とあわせて)洗練されていると言うべきだろう。 筆者も試みに「あらし吹く」をやってみたが、「吹く」だけでもラッパ、法螺、風等、さらに「噴く」も「服」も「福」も「葺く」もある。「あらし」も「まわし」「たわし」「からし」「さらし」等々、こうしてパロディロの迷路に入ってしまい、なかなかすっきりとしない。ふと思いついたのは「あらしふく」を「明石河豚(あかしふぐ)]−明石は鯛は有名だが、河豚は知らぬ。しかし、強引に「明石河豚」としてみると、どうなるか。発想は面白いが、一つのパロディーにまとめようとすると容易ではなく、あれこれコネ回すことになりそうだ。
すっきりしたパロディーは、できるだけ少ない変更で、鮮やかな意味の転換が成立するところにあるかもしれぬ。さらには、パロディーの本来持つ社会的役割−支配や体制への庶民的な健全な風刺精神、批判精神が含まれていくことが必要だろう。お互いの課題としたい。
鈴鹿百人一首について
葉里麻呂
当サイトで始めた鈴鹿百人一首は、本歌の韻を踏みながら題材を鈴鹿の山に求めると言う制約の多い遊びであるが、少数ながら賛同者を得て今日に至っている。
要は言葉遊びというダジャレなのだが、単なるダジャレではなく歌になったとき一つの意味をなさなければならない。ダジャレの連携が必要なのである。ついでにPartV第六首に例をとれば「三国の山」に西風が吹けばモミジがオゾ谷・三国谷・員弁川と流れ下って治田に流れ着くという地形上のリアリティーが必要である。いくら各句に面白いダジャレが浮かんでも、意味の連携がなければ只のデタラメとなる。 如何に戯れ歌と言えどもこういうことを四苦八苦して(それが楽しみでもある)考えているとボケ防止の役には立つのではないだろうか。
そしてその上に杣人氏が言われる「健全な風刺精神」が宿れば本物のパロディーとなる。風刺と言えば田沼意次や松平定信の政治に対する狂歌が有名だが、山に題材をとっている限りそれは難しい。しかし昨今の登山風潮や環境問題などを織り込む事は可能であると思われる。今後の課題とも言えるが、あまり難しく考える事もないだろう。
私としては百人一首を笑いに変えること自体、庶民の困窮をよそに恋愛の言葉遊びに耽っていた平安貴族に対する皮肉でもある。そして管理人解説も、遊びである百人一首に枕詞だの掛詞だの鹿爪らしい解説を加える評論家に対するパロディーなのである。
杣人氏の上記、優れたパロディーの条件を読んでいると色々気付かされる。人それぞれ感性は違うだろうが、私は声に出して詠んだとき調子のよいものが好きである。そして突拍子もない発想に出会うと会心の笑みが出るのである。
杣人、郎女の御両人がさらに返歌と言う制約の中で呻吟されている様子を想像すると、なかなか世の中も楽しいではないか。ただ次に続く人が出ないのは残念である。やはりこういうものを面白がる人は少し病的なところがあるのかもしれない。その病人から見ると巴菜さんのように、素直に自分の言葉で歌を作る健全さがまぶしく感じられるのである。