百人一首編 PartV
解説は御池杣人氏
本歌 秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつつ (天智天皇)
あじとたら かぼちゃといもと とまと洗い わが子どもらの 汁(つゆ)は煮えつつ
現代語訳 鯵と鱈、カボチャと芋とトマトを洗って全部鍋に入れました。汁は煮えつつありますが、料理を知らない父に子供達は何を食わされるのでしょう。 (神崎川河原にて)
解説 「あじとたら」、「かぼちゃといも」はよい。さらにねぎやきのこを加え、味噌味にすればうまかろう。だが、この鍋にたとえ洗ったとしてもなぜ「とまと」を入れるのだ。これはサラダにとっておきたかった。しかし、ここに「とまと」を入れるのは、案外、まったりとした新しい味の発見になるかも。栄養のバランスもいいか。どうぞこの歌に感動するような勇気ある人はおためしあれ。
本歌 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを (藤原実方朝臣)
格闘だに もはや吹雪の 釈迦ヶ岳 さても知らじな 漏るる思ひを
現代語訳 もはや吹雪となり登攀は格闘になってきましたよ。あなたは私がおしっこを我慢してラッセルしているとはよもやご存知無いでしょうね。
作者注: 「だに」は副助詞ではなく、遠州地方の方言で「〜ですよ」の意
解説 どこの方言なのか、「格闘だに」とは。「格闘だもんね」くらいの意味であろうか。たとえ「格闘だに」のラッセルのさなかであっても漏れてはいかん。はやく用を足すべきだ。こんな客観的にも主体的にも緊迫した状況下、そんなことをわざわざ「よもやご存じないでしょうね」と誰が歌うか。問われる「あなた」も応えようがないのでは。このとぼけさ加減が絶妙。
本歌 嘆けとて 月やは物を おもはする かこちがほなる わがなみだかな (西行法師)
嘆けとて 月の家円鏡 おもわする ぎこちなくなる わがからだかな
現代語訳 最近円鏡(橘家円蔵)も老けたなあと嘆いていたら、人だけではなく我身も(老けて)軽やかに登れなくなってきたことだ。
解説 円鏡(円蔵)も老けた。それはその通りだ。しかし、老けていくならばせめて「人情噺」をものにできるような老け方を円蔵にはしてほしいものだ。ところで、われわれはいかに老けていく?
本歌 風をいたみ 岩うつ波の をのれのみ くだけてものを おもふころかな (源 重之)
風邪をひいて のたうつ痛み くすり飲み くだしてものを もどすごーろかな
現代語訳 風邪気味なのに沢登りに行き、あまりに節々が痛むので薬を飲みました。ゴーロにさしかかった所で吐くし下るし大変だったことよ。
解説 風邪ひいて、痛みでのたうっているのに、山に行くべきではない。山を甘くみてはいかん。だから見なさい。吐くし下すし。だが、「ごーろ」という山の用語が妙なトーンをかもしだしている。念のため「ごーろ」は「がーけ詞」
本歌 君がため おしからざりし 命さへ ながくもがなと おもひぬるかな (藤原義孝)
君がため 塩辛ざりし たまごさへ 長くもがもが 味わいぬるかな
現代語訳 せっかくあなたが(休憩のとき)分けてくれたゆで卵だから、たとえ塩が振ってなくても長くモガモガ味わっているのです。
作者注: 君と黄身は掛詞。ゆで卵がモガモガするのは黄身のせいである。
解説 葉里麻呂は「もがもが」が大好きで、かくてまたもや僕も「もがもが」と解説をこいておる。しかし、ゆで卵の口の中における「もがもが」こそ、正しい「もがもが」の用法であることがこの歌から読める。義孝もよもやこんな使われ方をするとは「おもひぬる」ことはなかったであろう。塩を振っている時と振っていない時とでは「もがもが」は同じなのか、微妙に違うのか、思わずためしてみたくなる歌でもある。
本歌 あらし吹く 三室の山の もみぢばは 龍田の川の にしきなりけり (能因法師)
おしり拭く 三国の山の もみぢばは 治田の川の にしきなりけり
現代語訳 三国岳で紙を忘れたのでもみじ葉で拭いた。この葉もやがて員弁川に流れ入って治田あたりでは錦となって美しい光景になることよ。
作者注: 本歌の三室山と龍田川は歌枕である。だから鈴鹿では三国岳と治田の川(員弁川)も歌枕となろう。
解説 黄葉、紅葉の美しさ。晩秋のそれはひとしお我ら旅人の心を打つ。能因法師の歌にせよ、郎女の「時間よとまれ」の歌にせよ、その世界に没入してこそ歌える。葉里麻呂のこの歌はなんと評すべきか。治田の川(員弁川)あたりの錦の美しさの一因にはかかる営みが背景にあったのだ。しかも、三国の山から治田の川に至るまでここでは詠まれていて、そのスケールは大きい。しかし、知りたくなどなかったなあ。そうは言っても、知ってしまった以上、そうしたことも含めて美しいと鑑賞できるリアリズムの境地に人は至らねばならぬのか。そうでなければ、単なる貴族趣味的な花鳥風月の域を出ないのかも。そんな難題をこのとぼけた歌は提起している。カミくらい持っていきなさい。
よくもまあ、これだけおたんちんな世界をあきもせず吐露したことよ。伊達にボクラーの葉里麻呂と名乗っているのではない。何度これらの歌の内包する状況を思い浮かべてクックッと笑ってしまったことか。
以上、今回の全六首、「ミルキーあんぱん」風でもあるが、そのおたんちんなおかしさとろさといったら、一層磨きがかかっていると言わねばならぬ。特にとぼけ具合が絶妙の域に達しつつある。さらなる険しいおたんちん道へと精進されんこと祈るや切である。
葉里麻呂より
今回は予め御池杣人氏に解説を依頼してからアップしました。このような箸にも棒にも掛からぬアホな歌に評を依頼する私も図々しいのでありますが、快諾頂いた御池杣人氏に感謝する次第であります。
あらためて断るまでもないのですが、これらの歌は語呂合わせのためフィクションも混じっております。イメージを大切にする人のために言えば、実際に三国の山の紅葉を汚した訳ではないのでご安心の程を。ただし杣人氏の言われる通り、人間も含めた自然の営みを大きく受け入れる度量は必要でしょう。
歴史コラム 故郷の生んだ歌人 増田八風 (1880-1957) |
明治期、うちの親戚に村が始まって以来の秀才がいたと聞いていましたが、最近までどんな人か知りませんでした。菰野町史によれば、その人は増田八風(八風峠に因んだ歌号:本名は甚治郎)と言い、独逸語学者で歌人でもありました。正岡子規が残した根岸短歌会メンバーの同人歌誌「馬酔木」などに歌を発表しています。ドイツ留学中に歌人斎藤茂吉とベルリンで再会し、互いに短歌を論じた事が「菰野町歴史小話」に載っています。 十日ふり 廿日とふれる 長雨に 甘藷の蔓さす 一日もあらず 八風はまた東京帝大の学生の頃、フランスの作家エミール・ゾラやロシアの作家ツルゲーネフの作品の翻訳も発表しています。このような人だから当然若くして故郷を離れているので、実家は弟の甚作氏(故人)が継ぎました。のちに私の叔母が八風の実家に嫁いだため二重の親戚関係になり、私がハナタレ小僧のとき甚作氏に勉強を見てもらった思い出があります。 親戚の末席を汚している私がまたこのようなアホな歌をたくさん作って、八風の顔に泥を塗るのは忍びないのですが、表現の自由と言うことで致し方ないでしょう。八風さんゴメンナサイ。
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