百人一首編 PartU
皆様お上手なので、ここは本家としても気合を入れ直さなくてはと、PartUを作ってみました。
なお元になる歌のことは「本歌取り」という言葉に倣って、近藤氏の使われている「本歌」に統一します。
本歌 をぐら山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆきまたなん (貞信公)
御池山 峰の紅葉に 衣あらば 今ひとたびの 深雪ありなん
現代語訳 御池のオオイタヤメイゲツよ。もしお前に暖かい衣(ころも)があるならば、寒いと言わず
もう一度雪を降らせておくれ。
本歌 白露に 風のふきしく あきの野は つらぬきとめぬ 玉ぞちりける (文屋朝康)
白舟に 風のふきしく あきの日は つらゆき詠めぬ 紅ぞちりける
現代語訳 白舟峠に秋の風が吹き渡って紅の葉が舞い散る様は、名人つらゆき(紀貫之)さえ
歌に詠めぬほど見事であることよ。
本歌 高砂の 尾上の桜 さきにけり とやまの霞 たたずもあらなん (前中納言匡房)
かたかごの 御池の桜 さきにけり 遠山の霞 立てずにいるらむ
現代語訳 かたかご(カタクリの古語)咲く御池岳に山桜も咲いている。遠くに目をやれば重々たる山並み。
私はこの眺めが惜しいゆえに、こうして立ち去れずにいるのだろう。
本歌 人もおし 人も恨めし あぢきなく よをおもふゆへに 物思ふ身は (後鳥羽院)
人残し 人の昼めし あじけなく 世をなげくゆへに 猿の我が身は
現代語訳 人間の残していった昼飯を食べてみたが、味気ないことよ。コンビニで買ったものばかり
山へ持ってくるようになった世がなげかわしい。(猿より)
本歌 百敷きや ふるき軒端の しのぶにも なをあまりある むかし成りけり (順徳院)
ひもじきや 古き日付を 悔やめども なおありあまる お菓子なりけり
現代語訳 腹が減ったので行動食を食べようとしたら、とうに賞味期限が切れている。あり余るほど
持ってきたのに悔やんでも悔やみきれないことだ。
本歌 ありま山 いなの篠原 風吹けば いでそよ人を わすれやはする (大弐三位)
ありやまあ 稲の谷間に 取付けば いそいで人の 忘れものする
現代語訳 ありゃまあ、稲ヶ谷に取り付いたのはいいけれど、急いでいたので武平峠で待ち合せた人を
置いてきてしまったことだ。
本歌 ながらへば 又此比や しのばれん うしと見しよぞ いまは恋しき (藤原清輔朝臣)
ながめれば 又川此れや しのばれり うしと見えしは いまはかもしか
現代語訳 これがまあ、あの長かった又川かとしのんでいたら牛のようなものが走った。
今のはカモシカだろう。(静ヶ岳にて)
本歌 世の中は つねにもがもな なぎさ漕ぐ あまのをぶねの 綱手かなしも (鎌倉右大臣)
夜の中は つねにもがもが 寝言こく かまといぶねの つらで悲しも
現代語訳 昨夜は疲れて、一晩中モガモガ寝言を言っていたらしい。それほど鎌ヶ岳からイブネの縦走は
長く、つらくて悲しかったことだ。
管理人PartUの講評(御池杣人)
冒頭の三首の格調の高さはどうだ。
第一首は、春になる前に今一度、あの純白の雪原を歩いてみたい、歩かせておくれという切なる願い。オオイタヤメイゲツの衣という発想は普通は出てこない。少なくとも評者には。それほどの切なさが、この発想の尋常ならざるところによく表現されているとみるべきであろう。。
第二首も白船峠の風情を言い得て余りある。あの労作6巻本の先達西尾氏も白船峠を鈴鹿の代表する峠の一つと絶賛した峠。ましてや、秋風に紅が散っているのだ。ただでさえ峠の風は淋しい。そこに紅が舞い散っていく。そのさまをどうわれわれの貧困なる語彙で表現できるだろうか。おそらく紀貫之さえも詠めぬ美に違いない。「つらぬきとめぬ」を「紀貫詠めぬ」とした見事さ。そこまで言い切ることのできるほどの白船峠の美であることを読者は心されよ。もしこれを疑うならば、その期にただ一人で白船峠に立ってみられよ。この歌が決してオーバーではなないことを思い知るであろうよ。
評者がもっとも愛する歌が第三首である。「かたかご」などとさりげなく古語を使用し(にくいね)、それと茫とした山桜。(過日まさにある桜を求めて彷徨うも、すでに花はちっていた。また来年のお楽しみ。)この歌からその模様が浮かんでくる。同時にこの歌は、鈴北岳から丸山、池の平、日本庭園、お花の尾根を何度も眺め、この眼にいくら焼き付けても焼き付けても、去りがたい思いを、「エイッ」と吹っ切って鞍掛尾根へと歩を進める評者の姿そのもの。 この三首の格調の高さ。これはもはや「ミルキーあんぱん」の作者とは大いに一線を画すレベルと言わねばならない。
第四首では、「視点の鮮やかな転換」にうたれる。あのお猿さんの側にたってものごとを見るとこう見えるということ。その通りであろう。ひそかにかそけく咲く花から見たらどうなるか。これも「ミルキーあんぱん」と水準を異にすると言わねばならない。
第五首にいたって、管理人氏のとぼけ具合というか、奇想天外というか、PartT的な風情漂い始める。だいたい、ありあまるほどお菓子を持ってくるのではない。また多少の正味期限切れくらい、お菓子なら風味が落ちる程度。食べちゃいなさい(下痢しても責任は負わぬが)。その程度で「悔やんでも悔やみきれない」というオーバーなとぼけ具合、だいぶ「ミルキーあんぱん」になってきた。
第六首のとぼけ具合は絶賛に値する。もうクックッと笑ってしまった。5回ほど鑑賞していると、次いで和泉式部の切々たる歌「あらざらん〜」を「あら 足らん」とやってしまった評者にとって、「有馬山」を「ありやまあ」−−先にやられてしまった。グヤジーとの思いが募る。あとに続くのは、その真似でもいけないし、むずかしいことじゃ。しかし、これまでも同じ本歌から、多様な作が同人より輩出してきている。人の内面の多様さ、多様であるがゆえの面白さ。「ありやまあ」はもう使えないかな。どこかで評者は使いたいなあ。
第八首−−「難波がた」を「歯がたがた」とやる満作氏だ。「つねにもがもな」は当然「つねにもがもが」となる。「なぎさを漕」がずに「寝言をこ」く珍妙さ。結びの「かまといぶねの つらで悲しも」の折りたたむかのような馬鹿らしいほどのすばらしさ。Qちゃんの「鎌の端だけ」と甲乙付けがたい。それにしても鎌といぶねの縦走をまだ評者はしたことがない。僕もやはり「もがもが」で「つらで悲しも」となりそうか。いや「もがもが」と「つらで」にはなりそうだけどな。結局、「つらで」「ルンルン」「もがもが」となりそうな気がする。あのあたりの風情絶品を味わえば。
今回の八首は管理人氏の日頃のパロディー精進のさまが、如実に反映しているものといっていいだろう。特に前半の格調高さと後半の絶妙のとぼけ具合の共存。そこに氏の積み上げてきたものの特質、実りを見るとともに、このパロディー道の奥行きの深さ、幅の広さを評者は見るのである。「ミルキーあんぱん」も捨てがたいが、あの前半の格調も捨てがたい。評者もそれらの共存を志向しているのであろうか。
管理人より
私が自作にはコメントが付かず寂しがっていたら、近藤氏が身に余る「講評」を下さいました。何とお優しい方と感涙にむせんでおります。「ありやまあ」はどうぞ存分にお使いください。