本歌 嘆けとて 月やは物を おもはする かこちがほなる わがなみだかな
西行法師
七首とて 好きやわ本物を おもはする あちこちかほりある きみが歌かな
近藤朝臣
現代語訳 たとえまだ七首であったとしても この七首を余は好きであることよ(※「好きやわ」は古文の関西弁−ほとんど今と一緒のアクセントという説がある)。これはどこか本物ではないかと思わせるようなものが、あっちこっちの表現から香り漂っている、そんな君の歌であることよ。
注)七首のうち余の好みは第三首じゃ。「窯跡のうえ」が効いておる。急な登りに緊張しつつ、やっと少し平坦な地に出てホッとして、したたる汗をぬぐう。そう、窯跡はそんな静寂な地にひっそりと佇んでいる。石井女史の指摘するように、「実際に山を歩く人にしか作ることの出来ない力強い作品」となっている。人入らぬ地への単独行の緊張感と安堵感の連続たる充実感の香りが漂っているのは筆者の好み。
ついでながら、パロディーは決してヤクザな世界ではない。かなりのオタンチン度が高いレベルの、知的な遊びの世界といってもらいたい。
後世の注釈者 御池杣人が葉里麻呂の作品を評して「本物である」と断定せずに、「本物を思わせる」と微妙で慎重な言い回しをしていることに留意願いたい。この七首の発表を契機に、葉里麻呂は百人一首のパロディーのみならず、和歌の本格的な(当然「我流」ではあるが、またそこに価値があるのだが)研鑽に突き進んでいったことは記憶に新しい。それは葉里麻呂の内的発展過程においても、鈴鹿徘徊(俳諧)登山文化史にとっても意義のあることであった。
管理人解説 拙歌に対するコメントを歌で頂いたものである。月やは→好きやわ と言う杣人氏らしいユーモアを交えつつ、更なる精進を促している所は教育者としての暖かさと厳しさが垣間見えるのである ・・・ と、他人事のように言っている場合ではないが。
今でこそ関東に標準語の地位を譲っているが、関西弁こそ日本語の正当な本流ではないだろうか。当然和歌も関西のアクセントで読むのが優雅で好きやわあ。
管理人の曾孫 当時曽祖父、葉里麻呂が何ゆえ唐突に短歌を詠んだのかよく知らないが、歌人として名を残すに至らなかったのはやはりセンスが無かったのだろう。ともかく気まぐれな人だったので、何にでも手を出してすぐに飽きてしまう性格が災いしたのではないだろうか。
注釈者氏の鈴鹿俳諧登山文化史で思い出したが、我が家に葉里麻呂が唯一残した俳句?が現存するので紹介しておこう。
たこのあし いかのあしより すくないな ・ ・ ・ とほほ、その実力は推して知るべし
結局の所、生涯パロディーの方が似合う人だったというのが私の見解である。とは言え当時「二本バナ少年」の研究をしていた御池杣人が指摘したように、パロディーには感性と知性と痴性が要求されるのである。その点だけは葉里麻呂もただの山バカではなかったようである。