葉里麻呂

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 本歌  瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の  われても末に あはむとぞ思ふ       崇徳院

      わしは病み 岩と裂かれる コグルミの 割れても末に 抱かむとぞ思ふ

現代語訳

 わしは病に倒れ、コグルミ谷にあるわしの分身の岩に逢いに行けなくなった。元気になったら、少し割れたと聞くあの岩に逢いに行って、ヒシと抱きつくぞよ(御池杣人氏の気持ちになって詠んだ歌)

作者注: この写真はブレている。しかし、ピントの合った岩を見れば分かるように、手ブレではなく被写体ブレである。これは一刻も早く岩に抱きつこうという、歓喜の躍動を意図的に表現したものである。決して失敗写真ではないことを強調しておく。(理屈はあとからついてくる?)


  本歌   奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の  声きく時ぞ 秋は悲しき      猿丸太夫

       奥山に 落葉くぐりて 咲く花の 名をきく時ぞ わしは悲しき

現代語訳

 「あーたらこーたらがミスミソウで、何たらかんたらなのがスハマソウなんです」 。花博士たちから名前を聞いても区別がつかない私は、知識のなさが悲しいのでおます。 「わからん、なんもわからん」を連発していた同類の御仁がいたことだけが救いです。


  

 

 本句    梅一輪  一輪ほどの  あたたかさ     嵐雪

        花一輪  七厘ほどの あたたかさ

 現代語訳

   見上げればツボミばかりの中に、一輪の丁字桜が咲いている。咲いてて良かったあ。たった一輪でも七厘の炭火のように暖かく感じられることだ。


1)「はやみ」を「〜は病み」と発想する。おぬし、やるな!じゃ。現代語訳も余の思いそのもの。よくぞここまで人の内面がわかること。鋭い洞察力か。(かみさんによれば、余の内面はつるつるの極めてシンプル。シンプルの権化といわれていることも付記しておこう。)この写真もいい。心急く姿が動かぬ岩との対比で描写されておる。貴重な一瞬。感謝。(願わくば余の姿が鮮明に、岩がぶれている写真を今度は撮ってちょうだい。)

2)わしも悲しい。

悲しいけれどこの写真はいい。産毛がいい。花の真ん中(正式の名前知らぬ)の白と黄緑の奥深い色調もいいなあ。この写真そのままの歌がまたにくい。「落葉くぐりて」この花は咲いているじゃないか。本歌との対応もほぼピタリ。「秋は悲しき」を「わしは悲しき」が妙におかしい。おかしいけれどいまだに僕はこの花の名を知らぬ。わしも悲しい。

3)嵐雪の名句をパロデイーにするとは。その発想は(noriの方)の影響か。原句は「梅一輪 一輪ほどの」と梅の開花に即して、だんだんと暖かく春になっていくさまを詠んでいるのだが、本作は花が一輪咲いていて、それは七厘のように暖かく感じられる、そんな意味となる。リアルな世界を重視するならば、嵐雪の句よりも余は葉里麻呂をとる。

第一に、「梅一輪 一輪ほどの」とはだんだんとという漸次性が伝わる。しかし、梅である。梅の花は「梅一輪 一輪ほどの」というようなテンポではなく、それこそ一気に何百、何千と咲きだすのではないか。

第二に、葉里麻呂の句の「花」は一般にいうサクラでもソメイヨシノではいけない。あの花も一気に開花して「花一輪 一輪ほどの」とはならぬ。まさにこの写真の花のようにポツン、ポツンと咲かなくてはならぬ。この花でこそ「花一輪 一輪ほどの あたたかさ」なのであった。

だから本作は「梅」を改めて「花」にしておくだけで、嵐雪を超えて現実のリアルな世界を描写した画期的な句となった。

しかし、それでは格調が高すぎる。やはりミルキーあんぱんである。葉里麻呂は後者の「一輪」を「七厘」に。これがまたおかしみを誘う。

ここでまた面白いことに気づく。あの器具はなぜ「七厘」と呼称するのか。誰か調べてちょうだい。

御池杣人    


  「しちりん」はどういう字を書くのだったかなと辞書を引いたとき、語源も載っていました。値段が七厘で買えるからという素朴な理由です。現代の貨幣価値でいくらなのか知りませんが、当時庶民に買いやすい値段だったのでしょう。ちなみに七輪と書いても間違いではありませんが、語源からして七厘をとりました。 葉里麻呂