いっぽんのブナの木によせて・・・亀尾・・・

 

 

あなたは 今 月の光に照らされて 静寂の尾根に一人立っている  

気の早い雪が訪れ 紅葉で飾るあなたの枝を手折った

今は夜露に濡れるその葉を 朝には真っ白な霜が覆うけれど

 

やがて樹林に陽が射し込むと その葉は命の輝きを歌う

 

久しくあなたを両の腕で抱いた人はなかった

久しくあなたの幹に登って喜ぶ人はいなかった

久しくあなたを囲んで休息の時を過ごす人もなかった

 

あなたは なんにも言わなかったけれど

痛みさえ あたりまえのように受け入れ

秋の日だまりの尾根で わたしを迎えてくれた

 

あなたはそうして わたしを癒してくれた

 

落ち葉の絨毯のぬくもりがあなたの根っこを優しく包み

風は眠りについている

あなたは 今 森の獣達と 夢に遊んでいるのだろうか

 

かさかさと音をたてるのは 誰?

口笛のような声で呼ぶのは 誰?

月の雫が 孤高のブナの木に 音もなく降り注いでいる

 

わたしは 今 あなたを思っている

 

 


歌人−都津茶女は詩人でもあった。「秋の日だまりの尾根」にすっくと立っていたブナ。はしゃいで抱きついて、全身でその樹を鑑賞して、僕は通り過ぎていった。

しかし、彼女は通り過ぎてはいなかった。彼女の眼は今もなお、「日だまりの尾根」にすっくと立っているブナを観ている。それだけではない。彼女の眼はさらに、「月の雫が」「降り注いでいる」あの「孤高のブナ」を確かに視てみているのだ。

この詩は、はしゃぐだけの僕にも、「月の雫」が降り注ぐ、そんな世界へと誘ってくれている。人間の感性と知性の凝縮した形態での表出としての詩。詩は本来、かかる力を与えてくれる場合もある。読む側−主体のありようによっては。そのありがたさ。
                         御池杣人


 この詩には参りました。その視点、その感性。太陽に輝く白い樹肌と黄金の葉。その姿だけ見て、夜や霜降る朝にもじっとそこにあるということを忘れていました。いつか月光を浴びて輝くぞっとするような美しくも妖艶なブナを見てみたいと思います。

 久しく・・・の三行。そして「痛みさえ、あたりまえのように受け入れ」のところ。その思いやりにじーんときました。

                         葉里麻呂