都津茶女
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― みるきーあんぱん ―
さりげなく かたわらに添いて優し かすみそう
友ありて今日の我あり ふかふかの落ち葉踏みしむ ふたたびの山
喜びに花の笑みもれ友情の花束揺れる みるきーあんぱん
それぞれの個性放ち今日一日集う仲間の歓声響く
逢うことの不思議さかみしめ冬枯れの斜面に続く友を見送る
時を得て手製の札に一首添え白船峠と標す友あり
山談義あれこれと聞く山荘のこたつの温もり離れがたき
尾根登り尾根を下れば散り散りに心残して住みかに帰る
― 山の幸 ―
ちっちゃいね
こんなにも
ちっちゃいね
いがいがさえも
愛らしい
山栗の実
ちっちゃいね
ころころころころころがって
落ち葉に埋もれて
空見てる
ちっちゃいあなたを手にとれば
誰が食べたか皮ばかり
ねずみ 野うさぎ にほんりす
どこかにかくれて見てるかな
わたしの行くのを見てるかな
― 歩く ―
よろこんでくれる人のある幸を思う
この道の美しさに見とれ
友のありがたさをかみしめ
落ち葉の斜面に感嘆し
小さな物音に耳をすます
みんなからはなれ一人を歩く
みんなからはなれ二人歩く
みんなと一緒になり笑い合う
みんなはそれぞれであり
みんなはひとつ
窯跡に昔を偲び
煙突の煙がゆれるを見る
杣人の通い路を
落ち葉に埋もれた靴をすくいあげ
さわさわと歩く
紅の葉も黄葉の葉も
今は暖かな茶色一面
今は無心の山に遊ぶ
今のある幸せを歩く
― 命 ―
じっとこちらを見ている あなたに会った
ずっと向こうの急峻な斜面で すぐそこの尾根で
そんな姿が瞼に浮かぶ
あなたは一人かもしか道を歩いている
泊まり場で休息し笹の葉を反芻している
一発の銃声が轟き 森は緊張に包まれた
風も木々も太陽もみていた
あなたが生きた日々を
命が絶えたその瞬間を
怒りと憤りと無情と愛しさが去来する
今のいままで生きていた
あなたの温もりが痛々しい
今は一枚の皮となった
孤高のかもしか
深い悲しみが燃えるように 橙色の月が昇る
やがて天上に近づくと青白く輝き すべてを清めた
星空をかもしかが駆けていく
ふと立ち止まりじっと地上を見た
なに言うともなく円らな瞳で
森羅万象を見ていた
1.連作「みるきーあんぱん」について−
あの山行きはお互いに意義深い山行きであった。山へ復帰できたら−−−、その復帰行を友らと一緒に歩けたら−−−。
いつ何があるかわからないのが僕たちの人生。今後は僕がわけあって山へ行けなくなるかもしれぬ。その時、山復帰を自身も願い、友らも願ってくれるだろうか。
第二首−「友ありて今日の我あり」と「ふたたびの山」を謳う都津茶女の精神の強靱さよ。
第四首もいい。「それぞれの個性(きらめき)放ち」。だからみなとの山行きはうれしい。そうか、「個性」とはその人特有の「きらめき」であった。
第五首の「逢うことの不思議さ」もわかる。無数のすれ違いの中の数少ない意味あるすれ違い、それを僕たちは「出会い」という。そうならば、これは本来「不思議」以外の何ものでもない。
第八首−こうして同人が集い、下山すればお互いの日常の「住みか」へと僕たちは帰る。「散り散りに心残して」。でも、こうして下手なコメントでもこれを書くことにより、あの日の落葉の感触を蘇らせて、友らの多様な表現を吟味したりして、精神の中で今もきらめきの友らと山行きが出来ているありがたさ。
2.山の幸
この詩を「視点」から味わってみる。都津茶女の眼は足元の落葉のさらにその下にあった「山栗の実」を見逃さなかった。こんな「いがいがさえも」「ちっちゃい」栗の実を。僕はちんたら歩いてはいたが、心は別世界。
次いで、栗の実が「空を見ている」と栗の実に思いを馳せる。あの日の裸木の枝を通して見えていた初冬の空。
ここで場面は鮮やかに転換する。その栗の実を手に取る作者が登場し、今度は作者の眼から「皮ばかり」の栗の実が描写される。
結びは、その栗の実を媒介にして「ねずみ、野うさぎ、にほんりす」が「わたしの行くのを見てるかな」と、さらに大きく想像を広げていく。
一つことを見続けていくと、連鎖が連鎖を呼び込む。小さな栗の実一つを見つめ、自由に心の中が展開していく都津茶女の感性と想像の力よ。
3.歩く
連作「みるきーあんぱん」の主題を、「歩く」ことを謳う中で発展させている。
わけても「みんなからはなれ一人を歩く/みんなからはなれ二人歩く/みんなと一緒になり笑い合う/みんなはそれぞれであり/みんなはひとつ」が印象的で深く見事。
ガヤガヤワイワイの山行きも、全行程ガヤガヤワイワイやっているのではない。みなそれぞれの日常を引きずり、日常を背負いながら集っている。「みんなはそれぞれであり/みんなはひとつ」。これはかくありたいと願う我々の日常生活や人生そのものではないか。教師ならばそんな学級を子どもたちとつくっていきたい。さらにはこの矛盾だらけの我が社会も、過度の競争、蹴落としあい、敵対的な関係ではなく、相互尊重の平和的共存という意味で、かくありたいし、僕たちはそれを担いうる地球市民でありたい。
友と歩けばそんなことも教えてもらえる。
4.生命
冷川谷出合いの出来事。孤高のかもしか。非道の仕打ち−−−
かもしかはゆうゆうと歩く。立止まって首を傾げて遠くから我々をじっと見ている。無言で。
不慮の仕打ちにも、かもしかは「すべてを清めた」「星空を」「駆けていく」。
「すべてを清めた」とある。「清らかな」ではない。誰かが「清めた」のだ。心ない仕打ちにもかかわらず、かもしかが、だろうか。それともかもしかを含むさらなる大きい何かがか。
いずれにせよ、戦争を繰り返している未だ不明の人間を含む「地上を」「ふと立ち止まりじっと」見ている。そう「なに言うこともなく」「円らな瞳で」。
人間と自然との真摯な関係とは何か、考え続けねばならぬ。
「森羅万象」を僕も見続けていたい。歩きながら。
御池杣人
シリアスな歌に「みるきーあんぱん」という滑稽な言葉が浮いているように思ったが、読み返すうちにそれが優しく温かい言葉に変わっていくような気がした。「山荘のこたつの温もり離れがたき」という歌は本職の歌人のような出来映えだ。
「千と千尋の神隠し」主題歌に「生きている不思議、死んでいく不思議・・・」と言う歌詞がある。生死の淵を体験した作者はきっと人生観も変わったことだろう。「今のある幸せを歩く」にそれが現れている。健康に感謝し、そして生命あるものすべてへの慈しみがよりいっそう強く描かれている。カモシカの死を題材にした − 命 − の詩は鬼気迫る描写であり、つよく胸をうたれた。
葉里麻呂