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    憧れの 御池物語 今にして  隊員になれた ミルキーあんぱん

    山焼けの 心動かす 一休み  届けてあげたい 人、景色、空気

    東池 青のドリーネ 奥の池  やっと出会えて 疑問が解けた

    奥の池 木登り好きな 御池人  私も真似て 登ってみたい

    東端 スポットライトに 照らされて  浮き出て見える 赤色黄色

    雹降りて 急ぎ下山に 尻餅搗いた  師匠の分まで 尻餅搗いた

    山下りて 夢に出て来た  奥ノ平 思い懐かし 笹原の友


 第二首 「届けてあげたい」に作者の心根の優しさが現れている。様々な要因で今日参加できなかった人たちに思いをはせた歌。カメラが進化したとはいえ、匂いや空気は写らない。しかし過去にその場に立ったことがある山友なら、写真や詩歌からその空気を類推できるに違いない。

 第三首 出会えなかった場所、あるいは出会っても確定できなかった場所、そうした疑問が氷解することの嬉しさがよく出ている。

 第四首 野生動物に比べると人間のドンクサさは目を覆うばかりである。 肉体は大いに退化したと言えるだろう。そのぶん脳が発達したのだからいいのだろうが、登りたいという本能は大切にしたい。

 第六首はユーモラスな歌だ。ただユーモラスなだけではなく、「師匠の分まで 尻餅搗いた」という箇所は独創的な発想、卓抜な表現である。

葉里麻呂


梵氏にはかつて次のようなエールをいただいたことがある。

「人間なんてみんな生きている内に死ぬのです。そして人間を超越して生まれてくるのです。そうしてやっと人間になれるのです。みんな誰でも経験することです。遅いか早いだけ。早く生まれ変わって痺れるような人生を送れることは幸せです。生まれ変わると毎日が24時間になり、人の喜びが本当に自分の喜びになるようです。生き物がみんな生きて見えるようです」

病んで、復活して、病んで、復活していく過程で、「人の喜びが本当に自分の喜びになるようです。生き物がみんな生きて見えるようです」となっていけばどんなにすてきなことだろう。未熟な僕にはとてもそこまではたどりつけないけれど、あれこれ思い考え、気づくことの少なくない日々となっていることは確かだ。いずれにせよ、今もこのエールの内容を反芻・吟味している。

第三首―氏が奥の平の東池、青のドリーネ、奥の池にどんな疑問をもっておられたか、興味あるところだ。出会えた印象はいかがでしたか。

かつて背を越す笹の強烈な海の中、あるいは足跡一つない雪原において、たった一人でこれらと対面できたときはまことに鮮烈そのものだった。

結びの歌―これは今の僕の思いそのもの。2005年は一度も奥の平に僕は立てなかった。立てなかったけれども、何度も「夢に出て来」る。今もこうして瞳閉じれば、あの遠い世界を思い浮かべることができる。今は新雪に輝いていてまぶしいか。風が霧氷を飛ばしてー

「笹原の友」という表現が泣けるほど(僕は涙もろくなっている?)いい。そうなんだ、吟行同人は「笹原の友」なんだ。それは同時にかけがえのない人生上の友。

御池杣人