悦 女
本歌 木の間より洩り来る月の影見れば 心づくしの秋はきにけり よみ人しらず
木の間より散り来る紅葉見てるから 転んでばかり秋のミルキー
現在語訳
急な登りをヒーヒー息を切らして登ってみれば木々の紅葉が美しくて上ばかり見て歩くので
転んでばかり。もう冬枯れの林だとばかり思っていたのにミルキーあんぱんは楽しくて、この秋の山は鮮やかでなんと美しいことよ。
管理人解説
こんな歌が百人一首にあったかなあと思って調べれば、古今和歌集からの抜粋のようである。今年は紅葉が遅れ、期待していなかったものが見られた喜びがあふれている。御池杣人氏が日程を決めた時、また昨年に続いて今年も冬枯れかと思ったものである。しかし百人一首の選者定家にこういう歌がある。
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮
凄まじく枯れた歌で、凡人がこの境地に達するのは難しい。やはり花や紅葉の盛りに歩きたいのが人情である。
御池杣人
こつこつ歌にも精進なさって、昨年と同じく余は本当に腰がぬけそう。
「木の間より散り来る紅葉」、こんな妙なる空間に身をおけば、当然上ばかり見て歩くことになる。一枚一枚の葉の色の変化のバリエーション、虫くいの穴まであいて。その一枚一枚が風に吹かれて、地面のどこかに位置を定める。その不思議さ。なぜその地点なのか。まこと「転んでばかりの秋のミルキー」となろう。余も腰などぬかさずに転んでみたいものよ。
本歌 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき よみ人しらず
奥の池紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ君をおもいて
現在語訳
奥の池は葉の散ってしまった木々を湖面に写して静かに佇んでいました。静かな奥の平は鹿の楽園なのでしょう。笹原がこんなに衰弱してしまったけれど、人の背を越える笹原だった頃、鹿はどうしていたのだろうと思いはせていたら、石垣さんが通行手形を授かりました。もちろん「君をおもいて」は鹿を思っていたのではなく杣人さんを思っていたのです。
管理人解説
この本歌は一般的に猿丸大夫とされているが、よみ人しらずとしたのは「悦女殿、おぬしできるな」という感じである。第一首の選択といい、管理人のようなインチキ歌人は青くならざるを得ない。
やはり御池杣人氏への熱きエールである。感想は氏に任せよう。
御池杣人
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の→この「鳴く鹿」を「割くイカ」と、「秋はかなしき」を「味は七色(ななしき)」とたわけたことをやったことを思い出してしまう。それに比して何と格調高い歌であることか。石垣さんに過日申し上げたけど、実は僕はいまだに奥の池のお気に入りの写真をものにできていない。今年は一度もその地に立てず。だけど必ずやいつか、この奥の池のお気に入り写真をものにして、悦女殿を世話役とする写真展に出品したい。待っていてくだされ。
本歌 憂きことを思い連ねて雁がねの 哭きこそ渡れ秋の夜な夜な 凡河内躬恒
来ぬひとを思い連ねてアラレ降る 山を下りて春もふたたび
現在語訳
来ぬ人を思いながら山を下っていたら急にアラレが降ってきました。この山を下りてみんなであの岩にご回復を祈願すれば、今日来れなかった皆さんもみんな揃って春再びワイワイガヤガヤと楽しく出かけて来れることでしょう。きっとミルキーのみんな揃って歩きましょうね。
管理人解説
同じく本歌は古今和歌集。一句一句を本歌に対応させるパロディーとしてみれば物足りない。しかし技巧より情に訴える歌としてみれば、作者の優しさがよく現れている。「来ぬひとを思い連ねてアラレ降る」は詩情にあふれる。
御池杣人
葉里麻呂のいうように、「来ぬひとを思い連ねてアラレ降る」は詩情にあふれている。わけても「思い連ねて」が光る。病もあれば体調も仕事も、いろんな事情で参加できないこともある。奈月殿、都津茶女殿、金麻呂殿、多路傍殿、麻米粉殿・・・・こんなすてきな人たちを「思い連ねて」いる悦女。
フクジュソウの頃には必ずや。