葉里麻呂

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         わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ       元良親王

        噛みつけば 今歯が折れし 難儀なる 実をつぶしても 食わんとぞ思ふ

現代語訳  

 拾ったオニグルミに噛みついてみたが、歯が折れかけてエライ目にあった。こうなったら石で叩き潰しても食べてやろうと思う。 

御池杣人

 今はた同じ→今歯が折れし みをつくしても→実をつぶしても  あいも変わらずとぼけた置き換え、見事なものよ。山を視聴覚のみならず、口でも味わう(味わうというのはもともと口なのだから、最も基本にたった山行きか)。そんな高度な山行きを歌っている。うれしいことに、おたんちん度も同じくレベルが高い。山を口で味わう、なんとすごい執念の歌。だが、歯が折れるまで噛むのではない。口で何度も味わい吟味することが、本来的な山を口で味わう味わい方じゃ。こころされよ。


         あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな     和泉式部

        あらざらん この余の背なの あんぱんは 今ひとくちの あんこともなか

現代語訳   

 この私のザックに、あんぱんはもうないだろう。ああ今ひとくち、あんころ餅か最中(もなか)があればなあ。

(注) これは食いしん坊で言っているのではない。小倉百人一首のパロディーを詠むには小倉あんを使用した菓子が必携である。しかし作者は持参のアンパンを食べ尽くしてしまい、歌が詠めないと嘆いたのである。

御池杣人

僕の大好きな和泉式部の切ない歌を、「あらざらん」→「あら、足らん」のレベルにしてくださった。「今ひとたびの 逢ふこともがな」を僕は式部の切々たる思いを大切にして「今ひとたびの 雨音もがな」と、日照りで涸れた風池を眺めて、雨よ降ってほしいものだ、と切々と歌ったことがある。

ああ、それなのに「今ひとたびの 逢ふこともがな」(ああ、もう一度だけでもいい、お逢いしたいものです)という命をかけた切々たる恋の歌を「今ひとくちの あんこともなか」とは。とくにこの「あんこともなか」はミルキーあんぱんレベルのおたんちんぶり。思わず絶句。ぐやじー! これはわしもしたかった。「有馬山」=「ありやまー」じゃ。もう使えないのもぐやじー! しかも小倉百人一首にふさわしい、由緒ある小倉あんまで使う本格派。「大江山」=「おおやまあ」じゃ。

だけど、こんな遊びもまだまだ可能性があると再確認。オタンチン道にも精進せねば。


        田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ     山辺赤人

        真の谷に うち出でてみれば 茜さす もみぢの上に 霰降りつつ

現代語訳

 真の谷に下りようというときに激しく霰(あられ)が降ってきた。折り重なった赤い落ち葉のうえに、白い氷の粒が積もっていく。氷に茜がさしてなんと美しいことか。まるでイチゴのカキ氷のようだ。「いまひとくちのあんこ」と「お〜いお茶」があれば、宇治金時ができることだなあ。

御池杣人

 これだけでも単独の歌としての生命力をもっている。絶品の晩秋、真の谷。多様な色彩の只中に霰が降りしきる。さらに色彩のバリエーションの深化。想像するだにワクワクする中身。しかしまたしてもああそれなのに。この現代語訳。客観的世界は一幅の絵でありながら、主観的にはまだ「あんこともなか」をひきずったまま。イチゴ氷か宇治金時か。このおたんちんめ。


           来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ     権中納言定家

        来ぬ人を ひがしの峰の 夕暮れに 呼ぶや名古屋に 身もこがれつつ

現代語訳

 テーブルランド東端から名古屋に向かって 「杣人さ〜ん」 と呼ぶ声が真の谷上空を伝わっていく。身を焦がす女性たちの思いは病床に届いただろうか。杣人はんも罪なお方やわあ、いけず〜っ。

御池杣人

「いけず〜っ」と言われても、こちらは病床の管付の身。とれてうれしやとおもえば、直後のおもらし、おおあわてでおしめしながら様子をみていた頃。だけどこの日は精神的には同行していたよ。今頃どこでお昼ご飯かなあ、と病院食を食べて。

晴れていれば病院から御池岳が見える。だけど、この日は鈴鹿山脈は姿を見せなかった。それでもやはり同行していた。奥の平東端からのエール。これで元気にならなかったら罰があたりそう。