都津茶女
一年(ひととせ)に一度集まる吟行の 主役思いて車走らす
冬近し残り紅葉の尾根の下 祈願託して友ら見送る
風流と今日は来ぬ人道連れに 奥の平を心に描く
この足で歩けるものなら長命の 水を汲みあげ枕辺に行く
笑顔あり御池憧れ今日この日 明日の歌を楽しみに待つ
作者は登らないのに集合し、登らないのに宿題を提出された。怪我で登れなくてもできることを探し、自分も参加しているのだという意思が伝わる。なかなか見上げたもので、まね出来ないことだ。第一首にその思いが表れている。二、三、四首は「祈願託して」「来ぬ人」「枕辺」などから、病床にある御池杣人氏への祈りの歌であることが分かる。
ところで第五首を詠んだ作者にしては、コメント担当係を拒否したのは実にけしからんことである。そのために管理人はテレビも見ずに、うんうん唸ってあることないこと書かねばならぬことになった。くそー、覚えとれよ。
葉里麻呂
都津茶女に渡せる花束カスミソウの白きを見れば去年思ひける
昨年、「友情の花束」の背景に小さく咲くカスミソウになって、都津茶女への励ましの周辺をウロウロしていた僕が、今年は都津茶女に
秋深き峰の落ち葉の一葉にも友の病の回復祈る
と逆に励ましを受ける立場となった。励ましていた昨年の僕は、逆に今年、励まされることになろうとは夢にも思っていなかった。そう思えば、人生にはいろんな立場の転換があって、人間と人間との交流は一方向性ではなく、立場の転換を含めて相互性なのだなあとしみじみと気づく。その転換は予期せぬものではあるけれど、それはお互いの人生に彩りを加え、人生を豊かにしていく契機の一つであるかもしれぬ。
働きかけることはもともと他者に働きかけるという一方向性だけでなく、他者に働きかけながら、同時に自己に働きかけている、というのが教育学の原理。これにさらに立場の転換の問題が加わるとするならば、何というダイナミックな二重の相互性であることか。
これほどの歌をいただける。僕へも厚き友情の花束、ありがたし。それ以外の言葉を僕は持たぬ。
御池杣人