妙 女
ひらひらと 風と手をとり 舞う落ち葉 しごとを終えた くつろぎのとき
あられ雪 あったか小枝で ひとやすみ 冷えた手のひら 幹のぬくもり
赤くそまった イロハ・コミネ・ウリハダカエデ 黄葉の中 ひときわ色めく
写真撮る 友とたたずみ 瞬間を止め 景色の中の 吾と遊ぶ
@ 地球には重力があるが、葉のような薄いものは空気抵抗によって真っすぐ落ちてこない。それを「風と手をとり」と表現するところが詩であり歌である。下の句は日ごろ何かと気を使う仕事の合間の、ほっとする瞬間が良く表現されている。と同時に仕事を終えたのは、一年間風雨に耐えてきた葉っぱのことでもある。
A 小枝が温かければすぐ溶けそうなものだが、雪にとって岩より木の方が居心地がよい。これは物体が持っている温度ではなく、熱伝導率の違いである。物理的な現象が文学に昇華している。
B 鈴鹿北部では黄葉が中心となるが、それがかえって数少ない紅色を引き立てている。色彩感覚が鋭い歌。
C これは不思議な歌で、解釈が難しい。ともかく「景色の中の吾」ということは自分を客観視してのことだろう。想像の中のことか、あるいは自分が写ったカメラの液晶モニターを友と見ているのか。
目の眩むような黄葉の中で時間が止まり、主人公がその空間の中で遊ぶ・・・まるで中国の名匠、チャン・イーモウ監督の映画を見ているようだ。
葉里麻呂
1 もうこれは妙女の世界。葉が舞い落ちるさまを「風と手をとり」「しごとを終えた
くつろぎのとき」と詠むとは。晩秋の山行きとは、この大いなる「くつろぎのとき」をお邪魔することなのだ。
2 小枝を「あったか」、そこで「あられ雪」が「ひとやすみ」をするという発想・見方、ここにも妙女のまなこあり。
4 これはすごい。晩秋の山行。友らとの山行。時は音もなく経過していく。写真を撮ることはその瞬間を止めること。その瞬間を止めるゆえに「景色の中の吾」も見えてくる。その「吾」と「遊ぶ」妙女。いや、妙女だけでないだろう。あの写真群には、みな「景色の中の吾と遊」んでいる姿が写っている。
御池杣人