都津茶女
―― しずく ――
あられ
しゃらしゃら木におちて
あられ
ぱらぱら地におちて
落ち葉のお皿につもります
びゅるるん北風吹くお山
紅いもみじの掌のひらに
ゆきんこ乗せてどこへいこ
落ち葉のお皿に水玉の
模様をつけたの誰でしょう
そは しずく 雫
あのこのしずく
地にかえる
―― ともしび ――
あのこのむねに ぽっ
このこのむねに ぽっ ぽっ
や・さ・し・さ ぽっ
あなたはだあれ
はじめてであったあのひとも
歩こういっしょにこの道を
あのこの手にも ほっ
このこの手にも ほっ ほっ
ほかほか こ・こ・ろ ほっ
あなたはだあれ
わたしもあなた
― 静けさのなかで −
あの道は何を待ってる
あの道は誰を待ってる
悠久の時を越え
今は幻
きっと私は歩こう
あの木は何を見てきた
あの木に何があった
悠久の時を越え
ただ生きてきた
今も命を謳う
この大地に何が積もる
この大地は何を養う
ああ
すべての命を
この地からはぐくむ
炭焼きの窯跡
忘れさられ大地にもどる
静けさのなかで
あの道は待つ
きっと私は歩こう
―― 三日月 ――
あの木の洞の
まんまる小窓
そこから誰が空仰ぐ
今にも消えそな細引きの
三日月夜空に輝いて
すいこまれそうに透明な
闇さえやさしく包まれる
ああ
いつだって
あなたのそばにわたしはいる
わたしのそばにあなたがいる
目をほそめて
あなたは笑う
三日月
−しずく−
この詩の状況から昨年の拙作
真の谷に うち出でてみれば 茜さす もみぢの上に 霰降りつつ
を思い出す。氷イチゴには例えたが、「落葉のお皿」という可愛い言葉は出なかったなあ。出たら怖いけど。「しゃらしゃら」という擬音も、いかにもそれらしくて良い。
童話調の語り口で優しい印象を受ける。しかし最後の三行で一転して、如何なるものも最期は地に還ることを暗示している。厳しい現実だが、水の場合は姿を変えて天地を循環する。命の場合、個は消滅する。しかし遺伝子は永遠に受け継がれていく環境のままであってほしい。
−ともしび−
初お目見えの人に対する心遣いを詠ったものか。「わたしもあなた」が印象的。過去の自分を重ね合わせているのだろう。
−静けさのなかで−
その日その瞬間の感動だけではなく、過去未来の永い永い時の流れに思いを馳せるのが都津茶女の詩の特徴。道は果たして人を待っているのだろうか、拒んでいるのだろうか。私には分からない。しかし道は人がつけたのだ。
「あの木は何を見てきた あの木に何があった」 これはあの姿を見て強く思うことである。木が話せたらいったい何を語るだろう。興味津々。
−三日月−
ケヤキの洞から三日月がのぞく・・・リアルタイムの詩ではなく、これも都津茶目らしい時空を飛躍したイメージ。 「ああ いつだって」 以下の解釈は管理人のイメージ貧困につき理解不能。目を細めて笑うのは三日月なのか。横にすれば確かにそう見えるなあ。「お月様ってどうしてボクについてくるの?」 子供の素朴な質問に答えているような。
葉里麻呂
しずく−−
「落ち葉」は「お皿」。
「しゃらしゃら」「ぱらぱら」と厳粛に僕を打つあられ。
いつしか、あられから雪へと場面は転じる。
「紅いもみじの掌のひらに」「ゆきんこ乗せて」悠久の時の一瞬に立ち会う。
「落ち葉のお皿にみずたま模様」−これは僕にはまったく見えていなかった。僕たちはいつしか都津茶女の世界にいざなわれていく。そしてやがて「地にかえる」ことを教えられる。
ともしび−−
黄葉・紅葉の真っ只中、あられから雪へとめまぐるしく転じた山行。手袋持たぬ僕が手がかじかみ、「つめた〜」とおたんちんをしていた時に、都津茶女はこんな世界を歩いていたのだ。
「ぽっ」「ぽっ ぽっ」
「ほっ」「ほっ ほっ」
「や・さ・し・さ」が「ぽっ」
「こ・こ・ろ」が「ほっ」
結びも余韻を持たせて静かに響く。こうして「ともしび」をともす山行。一緒に歩けたうれしさ。
静けさのなかで−−
「あのこのしずく」は「地にかえる」。そう、地にかえっていく。
そして「地」は「すべての命」を育む。
長大な年月を地に育まれてきた2本の大樹との出会い。大樹にこの小さな身をゆだねれば、大樹は大きく受けとめてくれる。
「きっと私は歩こう」がいい。
大樹を育んできた「大地」。その「大地」の上を、しっかりと地に足をつけて「きっと私は歩こう」と。
都津茶女の中に新たな山行への構えが生成しつつあるか。
「きっと私は歩こう」−−静かなる意志。
御池杣人