悦女様らの共同労作 鈴鹿の山で見られる花 に寄せる

                            御池そま人

本歌

  月みれば 千々に物こそ 悲しけれ 我身ひとつの 秋にはあらねど

                                 大江千里

  花みれば 千々に物こそ 悲しけれ 汝が名ひとつも わしは知らねーどー

     御池そま人

現代語訳

  野山に咲く花をみても いろいろと悲しく感じられることだ だって、いろんな花の名前ひとつさえ わしは知らねーのだから。 そういう方に鈴鹿の花のコンパクトなこの本をどうぞ

管理人解説

  「知らねーどー」とはいったい何系の言語なのか。トルネードやレモネードから類推すると英米系かとも思う。それとも東北弁だったか。昔マンガで見たような気もする。何にせよ目の前の花を知らないということは確かに悲しい。作者の悲しさはよく分かる。管理人も山を始めるまではチューリップと桜しか知らなかったのだ(今でも両手の指と足指3本くらいの種類しか知らねーどー)。しかし知らんということは「鈴鹿の山で見られる花」で覚えていく楽しみがあること。その喜びは知っている人より「知らねー」人のほうが多く残されている。

千人に一人くらいの人のために言っておくが、本歌の作者は歌手の大江千里ではない。こちらの大江さんは一千年も昔のおぢちゃんである。在原業平の甥にして文章(もんじょう)博士であった。


本歌

  君がため 春の野に出て 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ

                                 光孝天皇

君がため 春の野に出て 図鑑読む わが思い出に 花は咲きつつ

                               御池そま人

現代語訳

あの花の名前知らないの と語るあなたのために 春の鈴鹿の山に出かけ その花を前にして 僕は 鈴鹿の山で見られる花 の図鑑を開くことだ こうしたことも僕とあなたの思い出になっていくことだろうよ ほら花が咲いて風にゆれている

管理人解説

  君が喜んでくれるなら百冊の図鑑をかついで山へ行くことも厭わない。コンクリートの電柱だってかついでみせる。ええですなあ、甘く切ない純情恋歌。「知らねーどー」のおっちゃんにもそういう時代があったのだろうか。今では「君」がいるから山へ逃げるという人もおありだろう。

 「ほら花が咲いて風にゆれている」 こんなことを臆面もなく書けるのは中年ゆえか。

この花は私です。やっときれいに咲きました。あの桜田淳子は今どこに・・・


本歌

  花のいろは うつりにけりな いたづらに 我身よにふる ながめせしまに

                                 小野小町

花の色は 写り、似合うな 山行きに 中身ジョイフル ながめ セシボン 

                                 御池そま人  

現代語訳

この本は、鈴鹿に咲く花々の多様な色彩を よく写して−映してーいることだ 印刷がいいのか同人諸氏のカメラの腕がいいのか。いずれにせよ、山行きにぴったりのハンデイーさ。しかも、500を超える花々を一挙にまとめて。花の写真に添えられた短いコメントもいい、同人諸氏のエッセイも薫っている労作−楽しさ満載。花を眺め、本を眺め、いつしか我がこころはセシボンーとてもステキ。

管理人解説

セシボンはバカボンの弟ではない。れっきとした仏語だ。でも歌はバカボンに近い。たぶん作者の頭の中はお祭り状態で、脳天気もピークのようだ。よほどこの図鑑を手にとってうれしかったのだろう。

史上初?の三カ国語が飛び交う歌だ。日・英・仏のキーワードは?それは日本の技術で掘られたドーバー海峡トンネルである。そんなことを思わせるスケールの大きな歌だ(そんなあほな)。すでに世は21世紀、セシ凡太という芸人を知る人は少ない。嗚呼、解説も支離滅裂暗夜行路。