読者投稿 御池の歌 とっちゃん
「霧の立つ御池岳・・・雨と風の恵み」
荒風を 受けては千路に 乱れしも 木の葉の舞える 様のおかしき
雨風に 打たれて花に 会いに来て 巡り逢えたる 時の喜び
髪の毛を 伝う雫を 手で拭い 曙草と 言の葉かわす
息ころし 風の止まりし 一瞬の その時を待ち シャッターを押す
一杯の 珈琲口に ふくむ時 濡れし体に 命の通う
鳥兜 葉を枯らしても 咲かす花 命の強さ 愛し紫
苔のむす 御池の原の 広々と 彷徨う人も 風景となる
彷徨いて 辿りつきたる 花の群れ 霧の雫の 玉の輝き
濃き霧に 獣の歩く 道をかり 彷徨う山に 花の安らぎ
「御池岳」
風渡る 霧渡る そして人渡る
来るも 去りしも 受け止めて
御池は 今日も ただそこに有り
「霧の立つ御池岳・・雨と風の恵み」に寄せる
御池杣人
この一連の御池岳讃歌を僕は震えるような想いで読んだ。二〇〇二年八月末、風雨の中の御池岳。実は僕もこの日御池岳に存在していた。コースは違えども、たしかにこの歌と同じ御池の空気を吸い、御池に降る同じ雨に打たれ、風に吹かれていたのだ。
僕はその想いを写真に託して、言葉は胸にしまっていた。都津茶女の歌は、僕のしまいこんでいた言葉以上の言葉で表現してくれている。
雨風に 打たれて花に 会いに来て 巡り逢えたる 時の喜び
その通り。僕もどんどんと暗くなっていく鞍掛尾根を一人もくもくと登っている時、アケボノソウに逢えるぞ、どんなふうに咲いていてくれるだろうか、と自問自答していた。鈴北から日本庭園への途上、アケボノソウに出会え、一人微笑んで声なき声を発した。
髪の毛を 伝う雫を 手で拭い 曙草と 言の葉かわす
息ころし 風の止まりし 一瞬の その時を待ち シャッターを押す
御池岳テーブルランドは、そしていまだ焼け跡のさえぎるもののない、からーんとした池の平一帯は、かなりの風雨だった。アケボノソウは激しく揺れ、容易に接写させてくれない。まさにこの歌の通り。シャッターを押しつつ、都津茶女はアケボノソウといかなる言の葉をかわしたのだろう。豊穣なひとときであったに違いない。
苔のむす 御池の原の 広々と 彷徨う人も 風景となる
そうか。御池をさまよえば、風景になるのか。風雨の中の単独行。「サムー、ツメター」と一人ぶつぶつ言いながらヨレヨレと歩いていても、そのさまは風景になるのかも。それほどの懐深い山。まさに広茫の山−御池岳。
都津茶女の御池の一連の歌。キーワードはいろいろあろうが、僕の個人的な思い入れも加えて詠めば、「風」「雫」「霧」。まさに僕の御池岳三部作『風物語』『雫物語』『霧物語』と符合する。なぜかうれしい。
管理人 「彷徨う人も 風景となる」・・・なるほど。大体写真に凝る人ほど人工物や人間そのものをアングルから排除したがる傾向がありますが、海外の山岳写真にはうまく人間を入れてドラマチックに仕上げているものも多くあります。無心になって自然に溶け込んでいる人はやはり風景の一部なんだなということに気付かせてもらいました。風、霧、人・・・末尾のステキな詩も人と自然が同列に扱われていますね。