開基及び沿革
鎌倉時代、親鸞聖人の重要な弟子である專信坊專海(註①)が建長8年(1256年)に下野国から遠江国鶴見(静岡県浜松市)に転住して、浄土真宗の布教を始めました。その際に遠州在住で開基の父了意又は了恵(1258年没)と開基了善(1300年没)が專海上人に入信して(註②)、天台宗から浄土真宗に改宗したと考えられます。その後、開基了善は文應元年(1260年)(註③)三河国岡崎の六名にて道場(註④)を創建したらしいが、しばらくして移転したと考えられます。
正安二年(1300年)に美濃国海西郡成戸(岐阜県海津市海津町成戸)に真宗寺院を創建したと考えられます。その年に了善は還浄したためか、二世了雲(1350年没)の名をとって了雲寺として、以後現住職30世宣親まで続いて参りました。その間、南北朝時代に「了雲寺高僧連座像」(註⑤)が制作され、室町時代に蓮如上人の「六字名号」(註⑥)を本山からいただいたと考えられます。ところが、この成戸の土地は木曽川と長良川が合流する輪中地帯で、水害の多い地域でした。
慶安三年(1650年)の「ヤロカの洪水」(註⑦)により被災し、桑名の地に避難生活(註⑧)を余儀なくされたと思われます。18世休意(1694年没)の時に、東本願寺15代常如上人より延宝五年(1677年)「法性法身仏」を下付され、桑名了雲寺を再興したと思われます。
19世慶春(1714年没)の時に、美濃国成戸村に戻り、東本願寺16代一如上人(1700年没)から、御本尊阿弥陀如来像・七高僧絵像・聖徳太子絵像・親鸞聖人絵像を受け(注⑨)、成戸了雲寺を再建したと考えられます。
明治時代、27世最正(1909年没)の時に、政府による木曽三川分流工事が明治20年(1887年)から始まりましたが、あいにく了雲寺境内が長良川の川底になる予定(注⑩)となり、移転先を探しておりました。その上、明治24年(1891年)濃尾地震により、山門と本堂以外はすべて倒壊という多大な被害を受けました。
そういった困難の中、明治29年(1896年)にこの北金井の地に移転することになり、故日紫喜九右衛門(註⑪)様・故種村兵助(註⑫)様などの北金井村の皆様の温かい歓迎と支援を受けて、明治33年(1900年)に現在の北金井了雲寺本堂が完成しました。 以来、28世契運(1923年没)の時代も北金井村の寺として皆様のご協力を得て少しずつ発展して参りました。
29世大泉(2005年没)の時に、昭和50年(1975年)に書院、昭和55年(1980年)に庫裏が再建され、昭和59年(1984年)に本堂屋根瓦葺き替え工事が行われました。
現住職30世宣親の時に、了雲寺門信徒様のおかげで平成24年(2012年)鐘楼堂が再建され、平成27年(2015年)本堂が改修されました。
註① 『東本願寺 真宗聖典』御消息集(善性本)p592.p593や建長7年(1255年)に『教行信証』書写を許され、寿像「安城の御影」を許可される。建長8年の親鸞書状、弘長2年(1262年)の親鸞聖人御入滅後の骨上げに参加で有名。1265年没
② 茨城県下妻市光明寺の『親鸞聖人門侶交名』に專信の弟子として了善・了意の名がある。
③ 昭和4年建立した北金井了雲寺本堂南の了雲寺歴代墓碑文による。
④ 『新編 岡崎市史 中世』p230の勝鬘皇寺の『交名牒』に專信の弟子で「三州六名二日市場住の了意-了善」とある。p231の勝鬘皇寺の『当山古記録』の家系図に、「遠州より三 了意-四 遠州より了善」とある
⑤ 愛知県岡崎市矢作町宝珠庵の「勝蓮寺高僧連座像」とよく似ていて、釋專海・釋了善・釋仏性(知多市大野光明寺の開基)の名も両図に描かれている。又、真宗大谷派名古屋教区「教化センター研究報告」第11集2016.6のp37所載によると、了雲寺の開基と同名の釋了善開基の愛知県半田市成岩の「無量寿寺高僧連座像」も「了雲寺高僧連座像」とのよく似た配置図をしていると思います。
⑥ 明治23年(1890年)4月の『大谷派本願寺鑑定証』に「六字名号 慧燈大師(蓮如上人)真蹟」とあるが、蓮如上人以外の方の筆跡の六字名号とする意見もある。
⑦ 『ビジュアル 江戸三百藩』49号2016年9月20日高須藩藩物語49-08には、当時尾張や美濃には、「ヤロカ水」という妖怪がいて、大洪水の原因だった言い伝えがある。藩主小笠原貞信は毎年のように発生する水害に悩まされ、元禄4年(1691年)幕府に所替えを願い出て転封となり、この地はしばらくの間、幕領となり代官の支配下に入ったのである
⑧ 黄檗宗の隠元の辛丑仲夏(1661年)の書軸「庭柏無根 虚空有骨 十分魯鈍 似遼天鶻」が残っていたが、『桑名市史補編』p217の僧隠元の項に「万治(1658~1661)年中に桑名藩主松平貞重公の招請により桑名長寿院に懸錫す」とあり、当時洪水災害により桑名に避難していた当時の了雲寺住職が、桑名藩主の要請で長寿院に滞在していた隠元禅師から励ましの書をいただいたのではないかと思われる。
⑨ 了雲寺の内陣余間の絵像(蓮如上人絵像は除く)は、つまり阿弥陀如来立木像・親鸞聖人絵像・聖徳太子絵像・七高僧絵像は一如上人から1695年~1700年に下付されたものと考えられます。
⑩ 明治24年(1891年)制作の地図には、下成戸村に了雲寺と思われる卍マークがありました。
⑪ 当時の北金井区長で、石仏のうどん屋(そば屋?)で27世住職最正と出会い、了雲寺の北金井移転が決まったという伝承がある。旧大泉原村村会議員。故日紫喜利宏様のご先祖。
⑫ 了雲寺の境内地を寄進。旧大泉原村村会議員。種村新司朗様のご先祖。
法灯相承系譜
了意-1.了善 - 2.了雲 - 3.慶雲 - 4.浄雲 - 5.了順 - 6.了寛 - 7.了春 - 8.常了 - 9.了應 - 10.惠了 - 11.了泰 - 12.惠雲 - 13.了階 - 14.了圓 -15.了意 - 16.智了 - 17.敬誓 - 18.休意 - 19.慶春 - 20.休意 - 21.泰翁 -22.教榮 - 23.泰善 - 24.法海 - 25.義門 - 26.天瑞 - 27.最正 -28.契運 -29.大泉 - 30.宣親 令和2年(2020)3月1日
30世住職 入野宣親 謹書