この本に集めた八篇について多くを語る必要はない。第八の作品(『分かれゆく小道の庭苑』)は推理物である。読者はある犯罪の遂行と準備の全てに立ち会うことになるが、その目的を知ってはいても全容を理解するには最終段落まで進まねばならないだろう。幾編かは空想的な手法による。『バビロニアのくじ』は象徴主義と無縁ではない。『バベルの図書館』の物語を扱ったのはわたしが初めてではない。その歴史及び前史に興味のある向きは、「スール」誌59号のあるページを当たってほしい。そこにはレウキッポスとラスヴィッツ、ルイス・キャロルとアリストテレスといった異質な取り合わせの名前が記されている。『円環の廃虚』では何もかもが非現実であり、『ピエール・メナール、『ドン・キホーテ』の著者』で主題の人物が自らに課した運命がやはりそうだ。挙げられている要覧は特別目を引くものではないが、恣意的な並びでもない。彼の精神史のいわば縮図であって...
膨大な書物を物すること、アイデア一つを500ページも展開するのは、骨が折れるし狂気の沙汰というものだ。そのようなものは口に出せば数分間で語り尽くせる。より良い方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて要約や註釈を差し出すことだ。この種の系譜にはカーライルの「衣装哲学」やバトラーの「美しい港」があるが、これらも未だ書物として在るという欠点を持ち、類語反復の域を出ていない。理性的で無能で怠惰な私は架空の書物についての評論を書く事にした。この手法によるのは『Tlön, Uqbar, Orbis Tertius』『ハーバート・クエイン作品の検討』『アル・ムターシムを求めて』である。最後の作品は1935年に書いたもので、最近「聖なる泉」(1901) を読んだのだが、多分全体ではそれと似たような考え方を行なっている。語り手は、ジェームズの繊細な小説ではBにおいてAまたはCの影響があるかどうかを探索する。『アル・ムターシムを求めて』では、Bを介して、Bの知らない遥かなZの存在を提示するかまたは予言するのである。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
1941年11月10日、ブエノスアイレスにて