御池杣人

 


本歌   めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな     紫式部

  めぐり逢ひて うれしや我が友 咲かぬ間に 友がくれにし 永遠(とわ)の時かな

現代語訳

 堅香子(カタクリ)の花がまだ咲かない間に、山の友とこうしてめぐり逢うことができて何とうれしいことよ。そのありがたさは、友らが僕に永遠の時をプレゼントしてくれたほどだ。

管理人解説

 鏡のように本歌に対応した歌である。それとも→我が友、わかぬ間→咲かぬ間も見事ながら、ハイライトは四句である。区切りをずらせて、全く異なる言葉にしたのは見事なり!カナにすれば一文字の違いながら、漢字の「雲隠れ」からはありえない発想。これはグヤジーだに。そして五句の置き換えは、なんとスマートで格調高いことよ。

 杣人初期の作品「ヤブがくれにし 鹿の尻影」と比較すれば、技術的進歩は顕著である。技術点、芸術点ともほぼ満点であり、百人一首パロディーの手本と言えるだろう。鈴鹿百人一首創始者の管理人も、これほどの歌は詠めんわいな。
 欲を言えば格調が高すぎて、杣人風のトロさが影を潜めている点だ。それは単に個人的な好みに過ぎないのであるが。

写真提供:マンテマさん


 

本歌    さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮れ       良暹法師

      ひさびさに 友たちに出逢えて ながむれば いつもと同じ 愛の勇気くれ

現代語訳  

 あるいはもう逢えぬかも知れなかった山の友たちとこうして久しぶりに出逢うことができて、笑顔輝く友の顔をまぶしくながめていると、その笑顔はいつもと同じように僕に愛の満ちた生きる勇気をとどけてくれているかのようだ。

管理人解説

 「夕暮れ→勇気くれ」はユニークかつうまい置き換えであるが、第一首の凄みに比較すれば技術ポイントは平均点と言えよう。しかし歌としての内容は深い。生命の危機を乗り越えたあと、作者の人生観が変わったのだろう。それとともに作風も変わったように見受けられる。第一首とともに感動的な内容である。大病をしたものにしか分からない、しみじみとした喜びに溢れる秀歌である。


 

本歌    浅茅生(あさぢふ)の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき    参議等

    えび忠の 美濃の小貝母(コバイモ) 忍ぶれど あまりに何度か 人の悔しき

現代語訳

 (余と初対面の)えび忠氏は、いくらミノコバイモが目立たぬ姿でおしのびで咲いていても、「ここにも咲いてますね。ほら、ここにも。」とあまりに何度かも見つけだして、先に下っていた人たちはどれほど悔しがったことか。(晴れ女巴菜女はあまりの悔やしさに、国道306号上を仰向けになって手足をばたばたさせていたとか。奈月も葉里麻呂もぐやじーーを連発していた。)(えび忠氏が見つけたコバイモを列のはるか最後部にいて独占しておきながら「みんなえび忠がわるいのよ」ととぼけていた杣人の写したコバイモは、そんな卑しい心根の反映か、当然ながら全部大きくぶれておった。)(しかし、「どこどこのミノコバイモは高さが5センチ、某所は10センチほどです。ここのは小さいです」というレベルの内容をすいすい語るえ○忠も相当△△なお方と余は見たぞよ。心強いことよ)

管理人解説

 技術度、おたんちん度ともに素晴らしい。「あまりに何度か」に初期の作風が色濃く出ている。「あさぢふ」が「えび忠」になるところも妙におかしみを誘う。そして本歌の「忍ぶれど」が見事に生かされている。コバイモが忍び咲くという他に、自分達だけ忍び見たという意味もあろう。コバイモとともに、この歌の完成度にも「人の悔しき」だ。
 どうも今回の作者は、何かに憑かれたように冴えまくっている。かなわんなあ。ところでコバイモの写真がブレていたことは、まことに喜ばしいことである。