都津茶女

 


 

 ― 奥丁子桜 ―

 

 静けさを咲く

 

 桜

 

 一つ二つと花姿数え

 我 仰ぎ見る

 

 蕾 幼子にして

 生まれたての若葉清々し

 

 今ここにある友の笑顔

 花と喜び

 

 ここにはいない友への思い

 花に託す

 

 天高く枝を広げるあなた

 根を洗われ横たわるあなた

 

 命 それぞれに与えられ

 

 桜

 

 名も無き谷の

 名も無き尾根で

 

 俯きて咲く

 あなたに逢えた

 

 時くれば

 やがて花びら舞いおち

 

 時巡り

 ふたたび咲く花よ

写真提供 御池杣人さん       


      世の中に絶えて桜のなかりせば  春の心はのどけからまし

     (もしもこの世に全く桜 がなかったなら、人々の春の心は落ちついたものだったろう…桜があまりにも美しい から人の心は乱れ騒ぐのだ)

という有名な歌がある。私のような無粋な者からみると「そんなやつはおらんやろ〜。あんたちょっとオーバーに詠んだやろ業平さん。チッチキチーやな」と言いたくなる。しかし毎年険しい山を登り、雨が降ろうが、ズルズル滑ろうがお構いなしに御池岳の桜に会いに行く人たちがいる。桜といえば一般には何本もの並木がいっせいに満開になった、絢爛たるものが好まれる。しかし彼らが会いに行く(奥)丁字桜は冒頭にある「静けさを咲く」花である。ポツリポツリと小さな花が「俯きて咲く」のみ。そんな地味な桜を見て何が面白いのかとも思うが、そこがそれ侘び寂びというものである。感性ある人たちは何かしら花と語らうのか、或いは無言の言葉を聴こうとするのか・・・。

都津茶女の詩の特徴は擬人化である。樹木をも人間と同様に優しく思いやり、慈しむ。だから「根を洗われ横たわるあなた」などと書かれると、気の毒で読者まで泣けてくる。しかしただ感傷的なだけの詩ではない。どこかしら強さも感じられる。たぶん大病を乗り越えた強さだろう。それは悟りといってもいい。

葉里麻呂     


僕の『御池岳・憧』掲載の写真「オクチョウジザクラT」(02年4月中旬)に彼女はこんな詩文を寄せてくれている。

 

 春の花の

 競演にありて

 動ぜず

 あるべき所で

ただ命のままに

咲く

 

 社会自体が人々(子どもも)を過剰に競わせ、ばたばたさせ、勝ちだの負けだの追い立て、結果として孤立化させ、人間として最も大切なことを見えなくさせていっている時に、「動ぜず」「あるべき所でただ命のままに咲く」ことの尊さ。我が人生もかくありたいものだ。

 都津茶女の今回の詩はその主題を引き継ぎながら、僕の写真からではなく、初めてこの花と直接対面できた感動の中にあって、静かにこの花と対話した思索。

 奈月の第3首―「雨上がり 谷に歓声 こだまする 咲いててくれた 丁字桜」―に添えられている奈月の手による写真は、この詩に触れるとさらに興味深いものとなる。そこには都津茶女が急く心をおさえて、この桜との対面・対話のときを大切にしようとしている、そんな姿が写っている。そのうしろ姿とこの詩との見事な呼応。この詩に触れ、一枚の写真もさらに語りだす。

 

 桜と都津茶女の「距離」の視点からこの詩を味わってみよう。

 まず、「静けさを咲く 桜」と、ほとんど人とまみえることなく咲いて散っていく桜をうたう。花・花・花と花に埋まるように咲き誇っているのではない。どこに咲いているのか、うっかり通り過ぎてしまうほどの地味さ。そっと近づけば「一つ二つと花姿」を数えることができる。そんな咲き方。「静けさを咲く」そのもの。その花を都津茶女は「仰ぎ見」ている。近くても遠い花。

 次の連もいいなあ。

「蕾 幼子にして 生まれたての若葉清々し」

 この吟行の次の土曜日、午前中のみあいていたから、僕の写真集のオクチョウジザクラ一木のみに逢いに行った。まだ固い蕾だった。ここに掲載している蕾の写真は、悦女世話役の鈴鹿の山の写真展への出品作品にすると決めた。タイトルはこの詩を借用。「蕾 幼子にして 生まれたての若葉清々し」。

都津茶女様。使わせて下さいよ。

 

彼女の花との初対面の挨拶から視点は移る。

この桜を取り囲み、花との対面を喜んでいる友の笑顔に。さらには、ここが都津茶女の都津茶女たるゆえんだが、「ここにはいない友への思い 花に託す」のだ。こうした仕方で彼女はこの花と対話をしていた。

かかる「友への思い」をくぐりぬけて、「一つ二つと花姿」を数えるこの樹を、彼女は「あなた」と呼ぶ。それは「天高く枝拡げる あなた」であり、けわしい谷に「横たわるあなた」である。(ここでの都津茶女と丁字桜との距離に注意。)

「俯きて咲く あなたに逢えた」とその距離のまま、出会いをうたい、結びは「時巡り ふたたび咲く花よ」とより距離を置く地へと戻る。

 

『御池岳・憧』では「ただ命のままに咲く」。本作では「命 それぞれに与えられ 桜」と病むことを経ての深化を見せて、お互いに生きて「あなたに逢えた」ことの意味を問うている。

 

僕たち与えられた命の時間の中の今、都津茶女もこの樹と逢って、まぎれもなく「静けさを咲いている」。

 

※この吟行の次のさらに次の週、午前中のみあいていたから、いよいよ破地輪駆なみに朝5時に起きて、このオクチョウジザクラ一木のみに逢いに行った。もう咲いているのではと。近づけども花は見えず。まだ雪があるくらいだから今年は開花が遅いのか、と。落胆しながら何度も仰ぎ見る。よく見れば遠いところに一輪。さらにいろんな角度から眺めればぽつんぽつんと四輪咲いていた。そのうちの一輪を撮ったこの写真「オクチョウジザクラ 06」。これを都津茶女にプレゼント。悦女氏の写真展に出品することに勝手に決める。タイトルはこの詩から「俯いて咲く あなたに逢えた」に。

御池杣人