都津茶女 U

 


 

 ― 福寿草 ―

 

 谷に降り立ち

 残雪を歩く

 

 ザラメ ザクザク 

 

 仰ぎ見れば

 雲隠れし日輪に 蕾む花姿斜面をうめる

 

 時遅しと 人は言えど

 福を呼ぶ花 変わらず ここに咲くを喜ぶ

 

 友の望み叶いて

 地に伏して花と語らう姿嬉しき

 

 花 

 友の再起寿ぎ

 つぼんだままで微笑みかえす

 

 明日の扉ひらけば

 朝霧音もなく天に登りて

 

 燦燦とふりそそぐ陽の光に

 命のかぎり咲くあなたがいるだろう

 

 土の香匂いたつ

 

 春

 

 あなたは生きる

 


 「なんでこんなにブツ切りに改行してあるんやろ。印刷したとき紙がもったいないやんか」などと詩ごころのない私は思うが、そこはそれ、よく分からないがきっと深遠な意味があるに違いない。違いないのだが、私にはよく分からない。そんな者がノウノウとコメントを書いているのも、自分のHPゆえであり、災難と思ってあきらめられたし。しかし考える努力をするのは礼儀だ。新聞や小説でよく行間を読めという。たぶんこの詩もよく味わえば、真っ白な行間に何かが見えてくるのかもしれない。読者もその辺りを念頭において賞味されたし。場面は巴菜女第三首と通ずる情景。まともな解説は当事者、御池杣人氏に譲る。

葉里麻呂    


 

『御池岳・憧』の写真「フクジュソウ(03年4月上旬)」に僕はこんな詩文を記している。

 

可愛い教え子たちと別れ

またこの地へ来たよ

 

もうすぐ

新入生を迎える

 

どんな物語を

紡いでいくのだろうか

僕たちは

 

 「仰ぎ見れば 雲隠れにし日輪に 蕾む花姿斜面をうめる」

 ある時は晴天、ある時は霧深き日。僕のお好みのルートでかの地にたつ。「仰ぎ見れば・・・花姿斜面をうめ」ていた。一人しみじみとあんぱんを食べながらフクジュソウと語ってきた。毎年の僕の心の儀式の空間。昨年は病ゆえにこの地では逢えず、その思いを引きずったままの一年。

都津茶女は歌ってくれる。「友の望み叶いて 地に伏して花と語らう姿嬉しき」と。ありがたい。

次の連は、一方的に花に思いを寄せて語っているだけの僕には見えぬ世界だった。「花 友の再起寿ぎ つぼんだままで微笑かえす」。そうか。花に語ってきたのは、花が聴いていてくれているからかも。そうか。花は微笑かえしてくれていたのだ。だから毎年通ってきたのかも。

結びもしまっている。

「土の香匂いたつ 春 あなたは生きる」

一昨年、彼女が入院する直前、彼女は木和田尾のフクジュソウと語ってきた。手術前の不安をいっぱい抱えて。そう思えば「花 友の再起寿ぎ つぼんだままで微笑かえす」は、僕のことであり、同時に彼女のことでもあった。「友の再起」に僕はどれだけ励まされてきたか。

土の香匂いたつ 春−病を見つめながら 生きる。

 

精進したし。