葉里麻呂

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五節の舞姫を見て詠める

        本歌  天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ   僧正遍照

 

五人の舞姫を見て詠める

            天つ風 雲の毛せん 敷きつめて 乙女のこころ しばしとどめり

 

  現代語訳   空の風が雲を眼下に押し下げて見事な絨毯を敷いた。それがしばし乙女らの心を奪っているようです。

           「めり」は推量の助動詞。 「乙女って何処におったんや」と言わないように。

 


 

寛平の御時の后の宮の歌合

         本歌  白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける  文屋朝康

 

平成の御時のみるきーの歌合

               白露を まとうカマツカ サワフタギ 秋の野原に 玉ぞ散りける

 

 現代語訳  紅や瑠璃色の実が雫をまとって輝いていた。あれは秋の野に散りばめた宝石なのだったよ。

         助動詞「ける」は今はじめて気が付いたという感動を表す。  

 


第一首

 

あの場面を、どの歌を借用して(本歌取り)歌うか。葉里麻呂は僧正遍照であったのか。余もこの「天つ風」に触手が動いたが、「霧たちのぼる 秋の夕暮れ」を「キムチたちのぼる 朝餉の夕御飯」とした近藤朝臣の歌に対する、「この人、大丈夫やろか。・・紙一重」という葉里麻呂の評を思い起こし、格調高いものにしようと、再度挑戦。同じ場面を、異なる歌を本歌取りして歌う。面白いことよ。

 

「雲の通ひ路」でなく、「雲の毛せん」としたところがいい。あの雲海はまさにふわふわだった。「乗ってはしゃいでみたい」と思うほど。

 

「乙女」は確かにいた。昨年の吟行−亀尾吟行時に僕はこう記した。「亀尾を踏破してしまう強靭さ。・・彼女たちは、可憐ではあるが、ヤワではない。そういう人は、いくつになっても乙女と表現してよろしい」と。だから居ったんや。

 

第二首

 雨あがりの雫。文屋朝康の「白露」「玉ぞ散りける」からの選歌よし。現代語訳の「秋の野に散りばめた宝石なのだったよ」もいい。そんな無数の散りばめられたまさに珠玉の宝石、誰にも本来は与えられているはずの宝石の中を僕たちは歩いてきたのだ。雨は雨の風情、雨上がりは雨上がりの風情。それぞれの得難い世界。

                                                          御池杣人