御池杣人

 

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 晩秋の一日、葉里麻呂、太郎坊、東雲、田麻呂、鈴(りん)女、悦女、都津茶女、妙女、奈月氏等ステキな人たちと、御池岳池巡り吟行。その折々に御池杣人が五首詠める。

 

 

本歌 村雨の 露もまだ干(ひ)ぬ 槙の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ  寂蓮法師

 

   秋雨の 露もまだ干ぬ 山の端に 雲たちのぼる 夕陽のテラス

 

現代語訳

  秋雨がしとしとと降るコグルミ谷,真の谷。紅葉黄葉もしっとりとぬれて。いつしか雨はやんだが、テーブルランドへ出れば、まだ秋雨の露は乾いていない。山の端っこの急崖に立てば、眼下に広がる丁字尾根、ゴロ谷等のパノラマの絶景も、正面にすっくとした姿を見せている天狗堂も今は雲海の下。西の膨大な空間はすべてを包みこんで白き雲海のみ。おお、雲海から雲が御池岳天狗の鼻へとたちのぼっていく。なんという美しさであることよ、この夕陽のテラスからの眺めは。

管理人解説

 村雨とは秋から冬の雨のことである。まさに当日の再現であり、本歌の選定が光る。その意味では秋雨と置き換える必要もないわけだが、現代人に分かり易く変えてあるのだろう。葉と端を掛けたのは格調高し。下の句もそれぞれ本歌に対応し、パロディーとしての完成度は高い。独立した歌と見ても当日の様子をよく伝えている。

 


 

本歌 由良の門を 渡る舟人 梶を絶え 行方も知らぬ 恋の道かな 曽禰好忠

 

   裏の葉を 眺む葉里麻呂 本を開け 幾重も調ぶ 学の道かな

 

 現代語訳

 葉の裏側をじっくりと眺めてから、おもむろに葉里麻呂ははっぱの図鑑を開き、葉脈がいかなるように重なっているか、幾度も幾度も調べている(幾重は掛け詞)。見よ、その図鑑を。付箋、メモ等いかにも使い込んでいる。これぞまことに学びの道の姿ではないか。葉里麻呂が常々、頭のてっぺんにヘンテコリンな、じーぴーえすとやらのアンテナをつけて歩いているのは伊達ではないのだなあ。

 

後世の注釈者

 御池杣人はここで己の日頃の不勉強を多少は恥じた気配はある。「葉里麻呂は正確には葉裏麻呂という名称かもしれんな」とカツサンドを口にしながらカミサンに語っていたらしい。しかし、恥じたのはその時だけで、「はっぱはわからんもん、樹木もわからんもん」と言い続け、相変わらずあんぱん食べながらのちんたら御池行きを続けたという。

 

管理人より

 このような歌を自分のHPに堂々と載せるのも如何なものかと思いますが、せっかく掛詞まで使って作って頂いたものをボツにもできず冷や汗三斗の思いです。人のことを茶化すのは面白いけど、自分のことはノーコメントじゃー。歌としては下の句が秀逸。

管理人の曾孫

 祖父に聞いた話では曽祖父は突然何かに熱中し、すぐ冷めてしまう人だったらしい。虫や泥のついた汚らしい落ち葉を大量に部屋に持ち込むので、しょっちゅう曾祖母に怒られていたということだ。樹木に詳しかったという話は伝わっていないので、じきに飽きてしまったのだろう。

 


 

本歌 浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき 参議等

 

   センブリを 噛むと胃の腹 しぶけれど 甘いカマツカ 何のこれしき

 

現代語訳

 センブリを口に含み、噛むと口の中だけでなく、胃やおなかまでもが「にがー、しぶー」となってしまう。たえられぬほどの渋み・苦み。しかし、先程枝からとって食したカマツカの赤い実の、かすかに甘いリンゴのような味を思い浮かべれば、何のこれくらいの苦さ、渋さかと我慢ができることよ。

管理人解説

 かなりミルキーアンパン色の濃い作品である。桃屋豆腐色といってもよい。やはり作者には食べ物の歌がよく似合う。漢方に使用されるセンブリは相当苦いらしく、「笑っていいとも」ではセンブリ茶が罰ゲームに使用されている。

 「人の恋しき」を「何のこれしき」に変えてしまう発想は、こじんまりした常識人には逆立ちしてもできない力わざである。

 


 

本歌 田子の浦ゆ うち出て見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 山部赤人

 

   鈴北へ うち出て見れば 妙女殿 フシグロの茜に ルーペもちつつ

 

現代語訳

 池の平から鈴北岳へと。その途上に小さく咲いていたフシグロの花を悦女氏に教えてもらう。晩秋になお咲いていたその花。小さくともその茜色から紫色の萼筒の微妙さにみなも酔うたが、妙女はしばし座り込み、ルーペまでとりだして動かず。「紫がいろいろだわー、毛も可愛いのよー、キャッキャッ」としばし珍妙なるジェスチャーつきで語っていたことよ。

管理人解説

 うち出でてみればという語句は、いっきに展望が広がる鈴北岳によく似合ってスケールが大きい。かと思えばルーペのミクロの世界まで忙しい歌である。森羅万象に興味を示す妙女の様子がよく詠み込まれている。やや字余りであるが富士とフシグロ、高嶺と茜の対応が秀逸。

 


 

 

本歌 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ 清原深養父

 

 秋の日は まどろみながら 経ちぬるよ 友もいづくに 夢宿るらむ

 

現代語訳 秋の御池岳での一日、いろんなことがあったが、「まどろみの尾根」まで下ってくると、なにか一日、紅葉黄葉の中に、ぼーとまどろんでいて過ぎていったような。そんな想いで余は「まどろみの樹」でまどろむ真似をしている都津茶女、妙女の姿を眺めている。鈴女、悦女、奈月、東雲、太郎坊、田麻呂、葉里麻呂氏等とのこの楽しい吟行が終わるのが、なんだか惜しい気がすることだ。わが大切な友人たちは、いかなる夢をいずこにか秘めて宿して、これから生きていくのか。ひるがえって己はどうか。お互いにかかる珍道中を時にしつつ、山行きと人生を実りあるものにしていきたいものだなあ。

管理人解説

 解説という硬い言葉にはなじまない歌である。作者が一日を共にした人々に注ぐ暖かい眼差しが感じられる。「山行きと人生を実りあるものにしていきたい」とあるが、こうして皆が歌を持ち寄って発表することができ、一つ果実が実ったと考えるのである。