田 麻 呂
陽をこいし 時雨しぐれて 杣人と めぐりめぐりて 我が身晴ればれ
水底に たまやたまやと 響きける 掬いし君に 春をあずける
落葉織る まどろみ尾根に 帰路集う 一夕惜しみて 鹿も鳴くのか
第一首
あの日、雨も霧も、一瞬の陽も僕たちを包みこんでいた。そんな大きな世界に包まれ、多様な杣人たちが語り合いつつ、歩いてきた。雨の日であっても、風の日であっても、何かをやりぬくということは、「我が身」が「晴ればれ」となっていくこと。そう、どんなささいなことであっても、何かを共同で達成することは、心地よい疲れとともに、心が「晴ればれ」となっていくということ。そのありがたさ。
第二首
やはり田麻呂はおたまちゃんに特別の思い入れがあるのだろう。「まもなく冬が来るのに、君はカエルにならずにどう冬を越すの?」−これはずっと僕のわからないこと。人智を超えた自然の摂理か。「春をあずける」が光る。妙女はクラスの子たちと、あのおたまちゃんがどうカエルになっていくか、見続けていくことだろう。逆に言えば、あのおたまちゃんは、妙女とクラスの子たちの春を待つ日々の営みを、そばにいて眺めていくに違いない。
第三首
まどろみの尾根のひとときは不思議な時が流れていた。田麻呂は鹿の鳴き声を吟じつつ、あの不思議な時間を描写した。
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸太夫
まさにあの場面はこの名歌の世界そのものであった。田麻呂はこの歌の現代的再現を試みたといってよい。
誰じゃ。この名歌をいくら奥山の道に迷って空腹になったとしても、リュックの奥から半年前のスルメの残がいを見つけ出し、「奥山に紅葉踏み分け裂くイカの恋する時ぞ味は七色(ななしき)」とパロッていたのは。
御池杣人
第一首
私の解釈ではこの場合の杣人とは御池杣人氏個人のことを指すように思う。御池杣人氏と山行を共にして温もりを感じたことを天気に掛けているのではあるまいか。
第二首
たまとは猫の名前と思いきや、元池でみんながたまちゃん、たまちゃんと言うのでたま氏はすっかりオタマに親近感を覚えたようである。杣人氏と同様、「春をあずける」に非凡なものを感じる。残った仲間と異なる道を歩むことになった一匹のオタマ。彼(彼女?)の運命や如何に。幸せになれよと願わずにはいられない。
第三首
自己の心境を鹿に代弁させたものであろう。たま氏は百人一首に題材を求めたわけではなかろうが、山を歩いていると昔に歌われた題材に次々と出会う。今も昔も人の琴線に触れるものは同じなのだなあと思う。
葉里麻呂