田麻呂 作品U

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御池杣人と山頭火

 「樹林の回廊」に棲み御池を吟じつづける御池杣人とは、一体どのような人なのだろうか。ひたすら御池である。なでるように、つつむように、目を閉じて五感でいつくしむように、あるいは御池の胎内に深く帰すように。尾根も池も木々も岩も花も・・・・穴も・・・おたまじゃくしも。彼の人の裡に外に御池が溢れている。

 この日、コグルミ谷道をたどりながらこの道を登路にするのは初めてだなと思った。でも、この道は2年前に一度登っている。一度辿った道が記憶から消えてしまうことなど今までなかった。記憶が錆びて剥落しはじめている。すぐに雨が降り出す。今年はたまに山に行くと必ず雨になる。山が霞みはじめる。カッパはきらいだ。杣人に会うのは初めてだったが、メールを二度ほどいただいたことがある。一度目はコラムの感想、二度目は初めて雪の御池に登った時。僕は、発作的に衝動に日記を捨ててしまったり、メールのログを全部抹消してしまったりする。杣人のメールも今はもう読み返すことはできない。でもあの二通のメールは深く記憶に残っている。

 ヒキガエル池、道の池・・・オニギリ池、いつのまにか薄陽が射しはじめた。昼食の後、夕陽のテラスへ。雲海が満ちている。天狗堂は見えない。「樹林の回廊」の同人が十人、好き勝手に一緒に行動している。日本庭園にはふかふかのコケがたくさん群生していた。水を含んで鮮やかな緑が淡く濃く発色している。悦女が珊瑚みたいと言った。生きた珊瑚の表皮は柔らかく青い。西表島の珊瑚もそうだった。息吹いているものはみなやわらかい。見おぼえのあるカレンフェルト、すぐに鈴北岳だ。妙女がしゃがみこみルーペで何かを見ている、フシグロ。彼女のザックの中にはお玉じゃくしがゆられている。冬の来る前にすくわれたおたまじゃくし。

 カルストの、石灰岩がごろごろしているところ、小竜の・・・と都津茶女はいう。小枝がはじけ上唇が切れた。ここに降りたのと奈月がいう。そう、ここに葉里麻呂は降りた、御池の命の一滴を見るがために。

 タテ谷をくだり静謐のコバに。杣人の微ろみの尾根。鈴女が照れて鹿が二度鳴いた。

 杣人の隠れ家に山頭火を見つけた。

 一山行き尽くせば 一山青し    山頭火

 一山色を変へ 一山尽くし難し   御池杣人 

 分け入つても 分け入つても 青い山   解くすべもない惑いを背負うて、行乞流転の旅にでた山頭火。

 世事を捨て遠ざかるがための山に入る山頭火。帰すべき山に四季を巡る御池杣人。ちがう山、ちがう時間、それでもふたりは山でおなじ空気、おなじ匂いにつつまれているような気がした。

 葉里麻呂氏主宰ミルキーあんパン吟行にて       田麻呂

 


 

山頭火の句と僕の山行き

                           御池杣人

 

 田麻呂の文は大変うれしくありがたいものであった。山頭火と御池杣人は、山でおなじ空気、おなじ匂いにつつまれているような気がした、と。まことに光栄である。

 「道楽本シリーズ」のどこかに書いたが、いつしか僕は、山頭火の句を心に浮かべながら、御池岳を歩いてきた。これからもそうなるだろう。

 例えば、山頭火には「水」の句が少なくない。

 

  へうへうとして水を味ふ

 

 わき出る水を飲むということは都会育ちの僕には久しく経験がなかったことであった。汗をかきかき、ひーひー言いながら、長命水までたどりつき、「よっこらしょ。休憩じゃわい」といいながら、汗を手ぬぐいでふきながら、長命水を飲むときの水のありがたさ、うまさ。大げさに言えば「おお、俺は生きている」と実感できる貴重なひととき。どうせこの命の水をいただくならば、「へうへうとして」味わってみたいなあ、と思いつついただく幸。

 そんなこと思いつつ、帰って句集をながめれば

 

  生きていることがうれしい水をくむ

 

 山頭火が僕の御池彷徨と重なる。僕だけではなく、ミルキーあんぱんの同人も、いや、山行く人ならば、みな同じ経験をしてるにちがいない。山頭火は誰もが経験している人生や生活のなんでもない一コマに内在している生きることの本質を、簡明にして素朴に句にした人かも。

 

 同時に、山頭火の句は彼が行乞を本当にしていたから(書斎にとじこもってではなく)つくることのできた句であり、そこに価値をみる。目に映る花や小さな生きもの、雨や風、雪、心の迷い、歩き歩きぬきながらでないと決してつくることができなかった作品群。

 

 一方、山頭火は、私生活では仕事も長続きせず,酒で繰り返し失敗を重ねる、だらしない、どうしようもない人間であったようだ。その彼の句に

 

  どうしようもないわたしが歩いてゐる

 

とあれば、酒で繰り返し失敗を重ねることなど僕はしないけれど、御池岳を愚直に歩く僕の姿とだぶって、ほとんどKOである。

 

 晩秋(雪の降る前)に、草原池跡あたりの草原に座り込み、そこで一人あんぱんを食べるのが、この間の僕のひそかな楽しみである。トリカブトはすでに亡く、ノギクの残滓に囲まれて。

 

  枯れゆく草のうつくしさにすわる

 

 この句の追体験をしてみたい。ただそれだけのことなのに、こんなことも山行きの楽しさかも。「枯れゆく草のうつくしさ」とは?と、しみじみと丸山あたりをながめながら、風に吹かれ、晩秋の陽だまりにつつまれて。あんぱんが美味なのはいうまでもなかろう。

同人諸君。

 こんなことを思ったり、思わなかったりしながら、御池岳。

 

  山あれば山を観る

  雨の日は雨を聴く

  春夏秋冬

  あしたもよろし

  ゆふべもよろし

 

 山頭火−お見事じゃ。

 


葉里麻呂

 山頭火について多くは知らないが上記お二人の文を拝見すれば、森羅万象何でも味わうことができた人のようだ。この世に意味のないものや、つまらないものはない。枯草だろうが雨だろうがじっくり鑑賞して味わう。これができる人は人生が豊になるだろう。財物の多寡が幸福と直結しないのが人生の面白さだ。