都津茶女  作品U

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楓よ楓・・・まどろみの夢物語        

 

あの虫食いの葉虫食いの

あなっこいっぱい空透かす 

お空をすかした数ほどに

虫と命を分けっこだ

 

楓のはっぱは美味しいよ

青虫ぱくりぱくぱくり

梢で小鳥が見ています

青虫青虫くちばしで

小鳥がさらっていきました

 

ひな鳥母さん待ってます

親鳥子育ていそがしい

青虫嘴(くちばし)口移し

けれど梢でねらってる

にょろにょろへびさん這ってきた

そしてごっくんと呑み込んだ

 

翼を広げお空から

鋭い眼差し見つけたよ

にょろにょろ逃げても一瞬に

爪で掴んで空の上

断崖絶壁鷲の巣で

樹海を眺めて大あくび

 

猟師が獲物を狙ってる

けれどここまで来られない

 

鷲の住む森きらきらと

命きらめく楽園さ

命は巡りまた巡り

命の輪っかはとぎれない

 

あらら楓よ楓さん

プロペラ付けてどこへ行く

種はどこまで飛んだやら

あちらに子どもが住んでます

そちらじゃ孫が芽を出した

命は継がれ引き継がれ

季節は巡りまた巡る

 

さっき落とした一枚の

紅い葉っぱを拾っては

りゅっく背負った小人らが

私を見上げて嬉しそう

この木はなんだと首傾げ

きれい綺麗とはしゃいでる

 

風さんさーっと吹いてきて

秋がかけっこしてるよな

葉っぱもからから転がって

秋をさらって行くのかな

 

この虫食いの葉虫食いの

楓よ楓よ楓さん

明日はどなたと巡り会う

うとうとうとと微睡み(まどろみ)の

夢であなたに逢いましょう

 

 

色葉舞う

             (御池杣人さんへ感謝を込めて・・・微睡みの尾根にて)


命は巡りまた巡る

 

冒頭の「あの虫食いの葉 虫食いの」の八と五のリズムと「虫食い」のリフレーン。この詩は冒頭から不思議な世界へと我々をいざなう。

あの吟行の末尾、まどろみの尾根でのゆったりした時間が流れていたひととき。僕たちはまどろみの樹のそばに立ち、楓の葉を見上げ眺めていた。一枚一枚、穴が開いており、その無数の穴から、一つの例外もなく無数の空が顔をのぞかせていた。

都津茶女は葉一枚一枚に丁寧にあけられていた穴とその向こうにある無限の空を眺めつつ、物語を織り始める。

全十一連の壮大な世界が、ここに登場した。「命は巡りまた巡り 命の輪っかはとぎれない」「命は継がれ引き継がれ 季節は巡りまた巡る」

あの「虫食いの葉 虫食いの」を起点として、太古からの途絶えることのない連綿とした大きな推移が七連まで生命のリズムを伴って描かれていく。

八連において突如、まどろみの尾根に立つ楓が「私」となり、「りゅっく背負った小人」たるあの日の旅人たちが登場する。その場面転換の鮮やかさ。その人たちはしばしたちどまり、「私」を見上げ「私」の前を「はしゃいで」通りすぎていった。

十連において視点は冒頭と同じ空間の位置に戻る。いや、正確にはより近い位置へと。それは「この虫食いの葉 虫食いの」の不思議なリズムを伴って、「命は巡りまた巡り」「季節は巡りまた巡」ってきたことを象徴しているかのようだ。その大きな大きな循環の物語の一瞬に、「色葉舞う 秋」の今があり、そこで私たちは通りすぎたり、出会ったり、別れたり、出会いなおしたりして生きている。

人間は、野菜にせよ、肉にせよ、他の生きものの命を頂戴しながらしか、生きることができない存在である。シシャモを食べるたびに思う。「こんなに身を細らせてしまって、その分すべてを卵にして、しかもその卵をお腹いっぱいにまでふくらませて、命を次代に託すのか、このシシャモさんは」と思いつつ、「おいしいなあ、カルシウムがたっぷりあるぞ」とその命を頂戴している僕はいったい何者だと。

これだけ、他の生きものの命をいただいて生きているならば、それ相応のことをしなければ他の生きものの命に申し訳ない。しかし、凡人たる僕には「それ相応のこと」は簡単にはできぬ。できぬけれど、せめて、心にとめておくことだけは忘れないでおこう、と思いつつ、つい人間世界における日常の多忙の中、忘れてイライラしたりの日々。

 

山を歩くといろんなことを考える。大きな世界に包まれるから。

都津茶女の詩は、人間として生きることの最も基本であるところの大切な世界へと回帰させてくれている。わずか一枚の葉のミクロな物語から。

こちらこそ、多謝。

                              御池杣人