奈  月

   

   冬枯れの 尾根をざわざわ 杣人と ちんたら行で 今が華  

 

   冷川の 尾根走り去る 鹿2頭 撃たれるもんか 命は一つ  

 

   下山には 重い宿題 肩にのせ とぼとぼ歩く 黄昏時よ

 

 第一首と第三首は対になっているのだろうか。「往きは良い良い帰りは怖い」と読めてしまう。他にも参加はしたいけど宿題が・・・と言われる方がいた。「あー、面白かった、じゃまたねー、バイバイ」でもいいのだが、ひとつくらい余韻を胸に頭の体操をする山行があってもいいと思う。とは言え、ミルキーあんぱんの発祥を思い出してください。

 「今ひとたびの みゆきまたなん (貞信公)」 が 「いかにも秋の ミルキーあんぱん」 になってしまうのだから、短歌とはいっても深刻さとは無縁の世界であることがお分かりでしょう。重い宿題ではなく「チョー軽い」宿題です。

 第二首は思いやりの歌。理不尽に命を奪われてはたまらない。「撃たれるもんか」に命の意地が表現されている。丸腰の相手を撃つは卑怯なり。

葉里麻呂


 

・あれだけの落葉の尾根。奈月氏の最初に書いておられた「冬枯れの尾根」という表現が、この吟行すべてを象徴していて、早速僕の作品?の序詞に借用。

・第一首−聴覚から伝わる「ざわざわ」が、足から柔らかく伝わるあの感触を呼び起こしてくれている。あるいは、吟行ゆえにあ−たらこ−たらのんびりとざわざわ語っている姿もこの「ざわざわ」には含まれているのかも。

・第二首−僕の作品?は、脚が速すぎる。もっとゆっくり姿を見せておくれ、とノーテンキに書いている。

「撃たれるもんか 命は一つ」−そうであった。人と鹿との長い歴史において、鹿は人を見たら全速力で去っていく習性となってしまっていた。

 山の歌人、石井明子氏の「追はれゐる二頭の鹿よとく走れとくとく走れ逃げ切れと祈る」(『四季湧水 鈴鹿の山を謳う』)が思い起こされる。

 

                                                        御池杣人