御池杣人

   

 

冬枯れの尾根を逍遥しつつ詠める         

 

本歌 かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける     中納言家持

 

   都津茶女に 渡せる花束 カスミソウの 白きを見れば 去年(こぞ)思ひける

 

現代語訳

 

 見事山復帰がかなった都津茶女様に「友情の花束」※をプレゼントすることができた。うれしい。その花束の周囲を飾っているカスミソウの白さを見ると、昨年のミルキーあんぱん時の夕陽のテラスでの雲海の白さ、さらには、いろいろあったこの一年の日々を思うことだよ。

 ※都津茶女に大きなことが待ち受けている週、葉里麻呂、山日和、いわなっち、たま殿たちが、彼女と冬の鈴鹿縦走を果たした。それを彼女は「友情の花束」と表現している。僕は同じその日、薄曇りの御池岳奥の平を彷徨し、やまぼうし殿とお目にかかる。だから、僕は友情の花束の周囲をふらふら揺れているカスミソウなり。

 

管理人解説

 

 カスミソウの白、雲海の白、そして山友の復帰を祝う皆の純白な心。色々あった一年が思い出される。心温まる秀作。「夜ぞ」を「去年」に転化するところはさすが教養人。

 管理人は連夜の編集とコメント書きで、目がカスミソウ。それともただの老眼?

 


 

本歌 月見れば 千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど     大江千里

 

   穴見れば 千々に物こそ乱れけれ わが身ひとりの あんぽんたんにはあらねど

 

現代語訳

 

 穴を見ると中が見てみたい、だけどこわいなあといろいろ心乱れることよ。今回の山行きではっきりしたように、これは別に僕一人のことではなく、またあんぽんたん三人組互助会(一人が穴に落ちたら、週に一回その穴にあんぱんやジャムパンを投下しにいく互助会)だけでもなく、同好の士がたくさんいることに気づけたのだから。

 

管理人解説

 

 人は見えないものを何とか見たいという好奇心がある。それは知らないことを知りたいと言う知的好奇心につながる。好奇心の対象物によってはアンポンタン扱いされることもあるが、必ず同好の士はいるものである。そうした喜びと安堵感が表現されている。
 この歌を見ると同じ作者の「わしは知らねーどー」とかいう、けったいな歌の一節を思い出してしまう。パロディーもやりすぎると元歌が分からなくなるので注意が必要である。

 


 

本歌 ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれないに 水くぐるとは    在原業平朝臣

 

   ひざやぶる カミサンも聞かず 立った山 カラフルな衣(い)に やぶくぐる某は

 

現代語訳

 

 「もう、こんなにヒザのところを破ってしまって。山行きなんて許さないわ」というカミサンの言うことも聞かずに、またこうして山に来てしまった。おお絶景じゃ。パッチワークのカラフルなファッションで、やぶくぐってばかりの某氏は(一部想像も含む)。

 ※諸氏にいたく感銘?を与えたあのパッチワーク。何とカミサンの手縫いであるところが無茶苦茶いい。もはや何も言うことありません。

 

管理人解説

 

 六首+一句の中で、技巧的には一番の作品だ。本歌のすべての句に対応して、なおかつ意が通ったひとつの歌とするのはかなり困難な作業である。単語の駄洒落で喜んでいる親父ギャグとは次元の違う高尚な創作である(ほんまかいな)。なかでも「ひざやぶる」という出色のスタートには恐れ入り屋の鬼子母神。作者は忙しい忙しいと言いつつ、何時のヒマにこんなことを考えているのだろう。お茶目なおじさんだこと。

 


 

本歌 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける      文屋朝康

 

   白船に 風の吹きしく 冬の日は 爪先踏めぬ 山ぞ見にける

 

現代語訳

 

 雪深いこの白船峠。ここまで来るだけでも、単独行の身には結構きついラッセルを強いられてきた。だけどせめてあの御池岳の姿を一瞬でもいい、見てみたい。たとえ真の谷を下り、テーブルランドをこの足が爪先さえも踏めなくても−と何度ここまで来たことか。そんなことをこの白船峠の地に立つと思い出すことだよ。

 

管理人解説

 

 「雪深い」とあるので、これは当日の歌ではない。しかし白船の地を踏んで作者は過去のきついラッセルを思い出したのだ。時間的にも体力的にもテーブルランドへ行けないが、せめてお姿だけでもという悲壮な愛。韓国までは行けないが、写真展だけでもヨン様に会いたいというオバサマに例えたら失礼やろな、やっぱり。 国道冬季完全閉鎖で純白の奥の平はいっそう遠い憧れの地になった。

 


 

本歌 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき        猿丸太夫

 

   奥山に 落葉踏み分け 跳ぶ鹿の 前過ぐ時ぞ 脚は速すぎ

 

 

現代語訳

 

 「めぐり逢ひて 見しやそれ共 分かぬ間に 藪がくれにし 鹿の尻影」ではなかった。なんと僕たちの真ん前を2頭の鹿が跳ぶように走り抜け、横切っていった。速すぎるよ。もっとゆっくり姿をみせておくれ。

 

管理人解説

 

 この歌を鑑賞しようとすると「サキイカ」とか「味は七しき」とかいう幻聴に撹乱される。どうも困った症状だ。
 野生の鹿に出会うとまず惚れ惚れと見とれる。我にかえって写真を撮ろうと思うころにはもういない。この場合はもっと激しい出会いだ。ゆっくり見たいと言う気持ちは分かるが、奈良公園の鹿のようになついてきたら幻滅である。人間に隙を許さない俊敏さと筋肉のしなやかな動き、美しい毛並みと目の輝きは野生なればこそ。

 


 

本歌 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば      源宗干朝臣

 

   我が友は 冬もうれしく 集いける 人世の憂さも 枯れ葉敷くコパ

 

現代語訳

 

 冬になってしまったけれど、こうして我が大切な山の友が集って、一緒に山行きができる。これだけでも実はどんなに意義深いことだろうか。こんな世の中だ。お互い、いっぱいつらいことやしんどいこともある。だけど「まあ、お座りなさいよ、よく来たね」と大きな何かが落ち葉を敷きつめてくださったのだろうか。そんな落ち葉の絨毯に座って、山の大切な友たちと談笑していると、小さな僕たちはゆるやかに包み込まれ、世のあれやこれやのしんどいことも、おだやかに静かに吸い込んでいってくれるかのようだ。この美しい初冬のコバは。

 

管理人解説

 

 「みんな、遠いとこからようきんしゃったのお」と、大きな何かが迎えてくれたのだろうか。なかなか味わいのある現代語訳だ。ミルキーに行けば懐かしいあの人や、まだ見ぬあの人に会えるかもしれないと、年末にもかかわらず沢山の参加があった。山は大勢で行くと楽しい。でも単独だっていいものだ。やはり無意識に大きな何かに包み込まれに行くのだろう。都会にはあんなに柔らかな道はない。今年は社会的にも個人的にもつらいことが沢山あり、ひときわ胸に沁みることだ。

 


 

 本句    うしろすがたのしぐれてゆくか   山頭火

 

       うしろすがたのはぐれてゆくか

 

 現代語訳 

 

 はじめ、ひらめいたのは「うしろすがたのひぐれてゆくか」であった。おお、山頭火といい勝負かも、と思えどこの写真の場面は残念ながら日暮れではなかった。惜しい。没。思い直して次に浮かんだのは「うしろすがたのまぎれてゆくか」。うん、確かにぼくは紛れておる。だけどこれだと2字。1字だけにしたい。だからこれも没。あれこれ浅知恵をつかい、やっと表題の作に。1字の変換であるということと、基本方向さえ確かなら、はぐれたっていい。どうせお前ははぐれっぱなし、ということで、こちらを採用。写真とマッチしているか、それは知らない。

 

管理人解説

 

 だんだん哲学的なってきて、解説こき難しというところだ。何故一字にこだわるか、また基本方向が確かな「はぐれ」というものがあるのか・・・何でも短く単純に見えるものほど難しい。和歌は説明的だが、山頭火の句はひらめきとか気合のようなものだ。元の句もよう分からんので「はぐれてゆくか」も分からない。解釈は無数だ。それぞれが自分流に感じればよいのかもしれない。

 いっそ一字取ってしまって 「うしろすがたのぐれてゆくか」という手もある。中年でもグレることはあるだろう。法を犯さぬ範囲で不良中年になってみるのもストレスのガス抜きだ。