葉里麻呂
本歌 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほいぬるかな 伊勢大輔
いにしへの 嫁菜の中の うば桜 今日ここの絵に 匂いたつかな
現代語訳
若干古(いにしえ)の乙女たちではあるが、ヨメナの中にお立ちになれば、いずれが花かと見まごうばかり。
今日ここに出現した一幅の絵姿からは、色香が匂いたつようだ。
注 : 「うば桜」とは中年でありながら艶めかしい女性を指す古語。 嫁菜は人妻モデルの掛詞。
御池杣人
まず若干「いにしへ」の乙女という現代語訳に留意したい。今回の乙女たちへの形容、「うば桜」を含めて、ギリギリ許容される範囲内か、逸脱しているか。ここだけ読むと微妙かもしれぬ。しかし「匂いたつかな」で結んでいるところを読めば、フォローの「労?」が読める。現代語訳は「いずれが花かと見まごうばかり」「一幅の絵姿から、色香が匂いたつようだ」と絶賛してもいる。この落差のバランスもギリギリ。「夢に見てうなされた」のはこの高度な技法を限界ぎりぎりまで踏み込んでいった疲れからであろうか。はたまた・・・・
鈴北岳山頂の登山者になって詠める
本歌 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
尾の原の 道こそなけれ 眺め入る 山の奥にも 傘ぞ咲くなり
現代語訳
お花尾根の緩斜面。道のないような所に突然カラフルな傘の花が咲いた。
こんな山奥でいったい何が起こっているのだろうかと眺め入った。
注 : 「道こそなけれ」は常道にない、斬新で驚愕の撮影会を連想させる縁語
後世の評論家
葉里麻呂が同じ題材で二首を詠むことは珍しい。よほど強く印象に残ったのだろう。
当時の日記に「夢に見てうなされた」と書いてあったらしいが、資料は散逸して定かではない。
御池杣人
そうか。オフ会での、意図しなかった偶然の傘の効果。好評に気をよくしてこの吟行でも第2弾を敢行。たしかに「斬新で驚愕の撮影会」となった。写真道の常道にない希有な撮影会。余はシャッターを押す視点から歌ったが、鈴北の登山者の眼から歌うという空間的な距離と視点の斬新さが面白い。
後世の評論家が言うには、葉里麻呂の「夢に見てうなされた」という日記と異なり、御池杣人は入院を間近にしていたにもかかわらず「この御池にこのように傘の花が咲くとは、極楽じゃ、極楽じゃ」と目を細めて語っていたという。
本歌 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする 大弐三位
あれヤンマ 池の水面に 風吹けば 命いとなみ 時を忘れる
現代語訳
あれー、ヤンマがいる。涼やかな風吹き渡る元池の水面(みなも)で、一心不乱に産卵を続けている。
命を紡ぐヤンマも、それを見つめる人も、お互い時を忘れてしまうのだった。
注 : あのトンボは腹部に鮮やかなブルーの模様を持っていて、オオルリボシ(大瑠璃星)ヤンマと推定される。
オニヤンマはこれが黄色。ヤンマーのトラクターが赤いことは関係ない。(わざわざ書かんでも分かっとる)
御池杣人
かつて葉里麻呂の「有馬山」を「ありゃまあ」とする発想に、先をこされたと悔しがったことがあったが、今回の「あれヤンマ」にもまたしてもやられた。こういうとぼけたあんぽんたん度の高い置き換えがよろしい。ぐやじい。「大江山」「おやまあ」じゃ。この一点が群を抜いてとろくて光っている。
本歌 秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 天智天皇
秋の暮の かりがね草の 花を写す わが衣手の 風にゆれつつ
現代語訳
もう暮れてきて薄暗いうえに、ひょろひょろしたカリガネソウは手元に吹く微風でも揺らぐ。
これではブレのない写真を写すのは至難であることよ。
御池杣人
わしのカメラでははじめからカリガネソウはあきらめておる。ジンジソウも欲張って近づきすぎたか。ましてや秋の暮だ。この歌は3脚なしにこんな小さな揺れる世界を写すことの難しさを過不足なくきれいにまとめあげている。
でもあの「あれヤンマ」は撮れていたのでは。わしの100ミリではすぐにあきらめたわい。
やはり 「うば桜」は失礼な語感を与えてしまうのだろうか。
しかし注にも書いたように、本来の意味は「中年になっても色香を失わぬ」という褒め言葉であることは、
調べていただければ分かるだろう。だから下の句はフォローでもなんでもなく、スムーズな流れなのである。
何を言おうが 「うなされた」 と書いてしまった時点ですべて御仕舞いですと?・・・ ヒョエー、堪忍してくだされ〜。
ひと言多かったか。覆水盆に還らず。そういえば、うちの娘も盆に帰らずじまいでした。 何してんのや〜。