東 雲

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@ 鞍掛の 尾根が明るく 開けたら ほんのり瑠璃の 沢蓋木の実

峠からは風も出てきて涼しくなったが、樹林の白文字や令法、夏椿の尾根道
は霧も出て薄暗かった。樹林を抜けたところで瑠璃色になりかけた沢蓋木が
出迎えてくれた。


A 元池の 水面に群れる 鬼やんま 産卵終えて どこへ去り行く

鬼やんまがあんなに沢山群れていたのは初めて見た。羽音が聞こえるほど近く
で人間なんか気にせずにせっせと水草に卵を産み付けていた。時間の経つのも
忘れてその姿を眺めていた。元池でこんなシーンが毎年繰り返されていたなん
て何度も来ているのにちっとも知らなかった。


B 姫風露 岩場にひっそり 残り花 谷を見下ろし 何を想うや

霧が流れ浅黄斑の舞う崖に着くとまだ姫風露が咲いている。初夏から咲き出す
この花はゴロ谷を見下ろす眺めなど関係なしに精一杯咲いているいるんだなと。


C 秋の暮れ 別れを惜しんで 見下ろせば 鹿の母子は 曙食んで

鈴北まで戻り、今日一日たっぷり遊んでもらった地を見下ろすと鹿の母子が草
を食んでいる。きっと曙草を食べてるんだろうな。少しくらい残してくれよ。
白嫁菜はどんどん増えているのにまずいから食べないのだろうか。


D 霧の中 急ぐ下山路 鹿笛に しばし足止め 秋を感じる

今日はちんたら歩きですっかり遅くなってしまった。暗くなってきたので急い
で鞍掛尾根を下っていると、牡鹿の鹿笛が谷間に木霊する。ふと立ち止まりや
っぱり季節は秋なんだなと感じた夕暮れだった。


 

1、鞍掛尾根を歩く楽しさ。あの一本道は単調に見えて単調ではない。ゆっくり歩けばこの歌のようにさまざまな変化が待っていてくれる。

 うすくらい世界から明るい世界へ。そこにサワフタギの透明度高いブルーの実。明暗と色彩の鮮やかさ。

 

2、このシーンは僕もはじめて出会う。これだけ通い歩いてもまだまだ知らぬ世界がいっぱい。あのトンボたちはあれからどこへ去っていったのだろう。テーブルランド上にとどまっただろうか。

 

3、ヒメフウロ−慣習的に僕はこの字を使用してきたが、この花の風情はやはり「姫風露」。この字でないと出ない。なんという素敵な漢字が並んでいることか。あんな絶壁に「咲いているぞ」と自己顕示することなく、あくまでひかえめに小さく咲いて。「谷を見下ろし 何を想うや」−僕の思いでもある。

 

4、別れを惜しんだのは私たち。あの母子はほっとしていたかも。お邪魔しましたね。

 

5、猛暑続いたこの夏。9月に入っても暑かった。しかし、さすがにここまで来れば秋の気配。今日一日の山行きの終わりにそれを感じる。歩き回っているだけではやはり不十分なのだ。「しばし足止め 秋を感じる」とあるように、足を止めることの価値。ちんたらの価値よ。

 

東雲氏の歌の特徴の一つは、木や花の名を、植物学的な?慣習によるカタカナ表示ではなく、古くから伝えられてきた(確かめていないので不確かであるが)、本来のその名にふさわしい意味を持つ漢字で表示してある点にある。沢蓋木、白文字、令法、夏椿、姫風露、曙草、白嫁菜−みなその字だけで雰囲気が漂う。こうした表示はやはり大切にすべきだろう。

 

 

 


@ 東雲氏はいつからか、HPにおいても植物を漢字表記している。よしあしは別として個性的であり、成り立ちの意味を今一度確認する機会になる。
ほの暗い樹林帯を抜けて一気に視界が開け、そこにサワフタギの鮮やかなブルーの実。非常にヴィジュアル的な歌である。

A どこへ去り行くで結ばれているが、そういえばそのとき考えもしなかった。昆虫のことゆえ、たぶん産卵後寿命を終えるのではなかろうか。

Cシカの食害が顕著だから頭数を調整する必要がある。理屈では分かるが、母の後をけなげに着いていく仔ジカを見て、無感情に撃てるものなのだろうか。かと思えば子の姿も見ず寿命を終えるトンボたち。生命の姿も色々だ。