御池杣人
1、密やかで厳粛なおにやんまの秘儀―産卵に遭遇して詠める
本歌
ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐにみずくくるとは
在原業平朝臣
静寂(しじま)やぶる歓声も聞かずおにやんま腹触れないに水くぐる尾は
御池杣人
現代語訳
静寂の中、突如響く人間の歓声。「わー、おにやんまの乱舞よ」「あっ、ホバリングしてるわ」「こんなにたくさん」「おお、産卵してるんだ」「はじめてだね、こんな場面」等々突如あらわれた人間の歓声など全く聞こえないかのように、逃げることなく元池の水面に産卵を続けているおにやんま。堂々たる自然の厳粛な営み。ホバリングを繰り返し、葉にとまり、腹は水面に触れることなく、尾のみを水にくぐらせて。
※ 元池にもどれだけの命のドラマがあることだろう。この卵はおたまやいもりのえさになるか。やごになれば、おたまを食するのか。人間の思惑などはるかに超えた世界の厳粛なひとときに立ち会えた幸。
管理人解説
うまい!この手があったかと業平の「水くくるとは」を思い出す。「と」と「尾」も発音的に違和感がなく見事。たしかに尾は水をくぐっていたなあ。しかも唐紅(からくれない)を腹触れないとは! 尾をくの字に曲げての産卵を写実的に描写して天晴れかつアカデミックである。しかもこの置き換えは思わず笑えるユーモアもある。参りました。下の句はパロディーのお手本といえる。 それに比べて今回の管理人の作は、忙しさにかまけて手を抜いていたと言わざるを得ない。反省。
御池杣人氏もこれくらい冴えたあんぽんたん度を発揮できる精神状態なら、入院に対する動揺もないと見る。結構なことだ。
ところでこの歌が科学分野でも評価されるには、昆虫のどこが腹でどこが尾なのか調査を要する。歌の世界ではどーでもええことではあるが。
2、傘と100ミリレンズが好評ゆえに気をよくして、シリーズ化。第2弾の撮影会にてシャッターおしつつ 詠める。
本歌
花のいろはうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに
小野小町
傘のいろはうつりにけりなひたむきに汝身やまくるよめなさくまに
御池杣人
現代語訳
漢字を交えれば、以下の歌になる。
傘の色は映りにけりなひたむきに汝身山(深山)来る(ながみやまくる)ヨメナ咲く間に
この雨の中の山行きは楽しい。せっかくの機会だ。撮影会をしよう。色とりどりの傘の色が霧の淡い白に映えて、深山にまで身をひたむきに運ぶ(掛詞)あなたたちのいっぱいの笑顔がシロヨメナの大群落の間に咲いていることよ。
※ この「間」はシロヨメナの咲いている期間という時間的意味と、シロヨメナが乱れ咲く場の間という空間的な意味と、両方を指している。
管理人解説
作者御池杣人氏の歌には時々けったいな日本語?が出てくるので注意を要する。汝身(ながみ)などという言い方があるのだろうか。我身があるのだから汝身もあると言えばアリエールのだが、一般的ではない。だいたい現代語訳が説明がましくなるときは、置き換えが苦しいときと相場が決まっている(管理人も同じ)。
移るを映るとしたのはカラフルな場面を彷彿させる。「間」に時間と空間の両方の意味があることも分かる歌。モデルの皆さんの屈託のない笑顔が思い出される。
3、吟行の終わりにあたり、鈴北岳にて御池の世界を振り返りつつ詠める
本歌
さびしさに宿をたちいでてながむればいづくもおなじ秋のゆふぐれ
良暹法師
たのしさに鈴北にたちいでてながむればいづくも夢路しかのゆふぐれ
御池杣人
現代語訳
楽しかったこの吟行。山のすてきな仲間たちとの得がたい時間。御池テーブルランド上
では最後の行程、鈴北岳まで立ちいでて振り返る。
今日一日、友と何度も笑い、語らいながら遊んでもらった御花の尾根から池の平、日本庭
園一帯を見渡せば、どこもかしこも、なにもかもがまるで夢の中のことであるように思わ
れてならぬ。あのオフ会の沢歩きも今日の御池吟行も、ただ楽しくて。
こうしてまもなく入院を控えた身には、同人の友情ありがたく、夢路をたどっているよう
うな。
ほら、別れを惜しんでくれているか、あの母子鹿の姿もまるで夢のようだ。
この夕暮れよ。
管理人解説
おなじを夢路とした以外、第一首のような凝った技巧は見られない。
しかし「いづくも夢路」としたことで、今日一日を振り返る歌に転換されている。
本当に楽しく、茫洋とした天気も相まって夢をみていたような吟行であった。
そして「鈴北なんぞまた何時でも来れるわいな」という我々と違って、作者は長期の入院を控えている。
退院しても、また一から体力を作り直さねば登れない。去り難いのもむべなるかなである。
しかし去り難さよりも、当日の満足感や感謝がより強く感じられる歌であり、物悲しさだけに終わっていない。