都津茶女 1
・・・・・時をわすれて・・・(第七回みるきーあんぱん前夜祭)
慈しみ、愛しみ、あなたは御池岳の立体地図を眺めた。
両の手にとって
顔を近づけ
また離れては畳に伏して
あの窓から見える御池岳が。
あの車道から見える御池岳が。
あの谷間から見える御池岳が。
あの尾根から、見える御池岳が。
あの稜線から見える御池岳が。
御池岳から見える風景が。
御池岳を歩くあなたが。
御池岳の思い出が。
御池岳のすべてが。
あなたの胸をときめかせる。
父なる人の手により生まれし立体地図。
命吹込みし人と、立体地図と、病とともに生きるあなたと。
時を忘れ集う夜の明かり温かに我らを包み
今、心一つに繋がる喜び心を満たす。
――――都津茶女――――
あの立体地図は前夜祭のハイライト。
これまでの数え切れぬ御池岳山行が、あの模型からあれやこれやとよみがえる。
山行きだけではない。新幹線の窓から、東名阪の車窓から、職場から、病院から遠望する御池岳のシルエットまでも浮かんでくる。
汲めども尽きぬ面白さ。
「とっちゃん2」の写真がいい。破地氏と並んで寝転がってこの模型を眺めている。どの地からを想定して眺めているのだろう。
それを通氏や葉里氏が笑って見ている。あの場面だ。
葉里氏が「豚の耳に小判?」と言うように、この面白さはわからぬ人にはわからず、わかる人にはわかるのだ。
そしてここにもう一人。真からわかる人がいた。ありがたし。
御池杣人氏にとって御池岳は心の山、生涯の山だと察する。他の山の模型ならそこまで熱心に眺めることはないだろう。
あの尾根この谷、あの丘この池に積年の思い出が染み付いている。
たとえ模型といえども、その形状から山歩きの記憶を反芻することや、バーチャル登山もできる。
「御池岳を歩くあなたが」の一節でそれが表現されている。
男は生まれつき模型が好きである。見るのも作るのも。それがリアルであるほど狂喜して、さまざまな角度から眺める。
それが憧れのクルマや、大好きな飛行機なら尚更だ。
この詩にはそうした心理が見事に描写されている。通氏が言った、やんちゃなまなこ。そう、子供に還るのである。
本物の御池岳は手にとって自由に動かすことは不可能だから、そのあたりも面白い感覚だと思う。
そしてその立体模型を作ったのは誰あろう、わしである。 えっへん!
ところで 「父なる人の手」 が誰を指すのか、御池岳を作り給うた造化の神か、
はたまたその模型を作ったわしであるか。
分からないので都津茶女氏に問うたところ、「わしやよ〜」 との返信を得た。
そうか、わしが父なる人とは知らなんだ。娘たちの父であることは身に覚えがあるので、なんとなくそうかと思っていたが・・・
音楽の父がバッハ、自動車の父がダイムラーとベンツ、そして御池岳模型の父が葉里麻呂。何だか偉くなったような。
正確に言うとわしが模型の父なら、祖父は国土地理院、そして曽祖父が偉大なる造化の神(自然)ということになる。
そしてその模型を鑑賞する人、遊んでくれる人がいて、初めて模型に命が宿る。
「今、心一つに繋がる喜び心を満たす」 そう。話が通じ、心が通う人達との集いは楽し。
そしてひときわ 「杣人さん、早く元気になってね」 という作者の暖かい思いやりが、文章の向こうに見える詩である。