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関西随一の仙境:伊勢湯の山温泉御案内

1 『関西随一の仙境:伊勢湯の山温泉御案内』

国際日本文化研究センター(日文研)の「日文研デジタルアーカイブ」に収録されている鳥瞰図であり、承知している湯の山温泉の鳥瞰図・三種類のうち一番新しく、唯一の吉田初三郎によるものだ。これら鳥瞰図が掲載された観光案内書には、御在所岳など湯の山温泉周辺の登山情報が少なからず書かれている。

絵師は吉田初三郎となっており、印刷は京都の観光社出版部による。発行時期は不明だが、(1) 昭和6年に三重鉄道が四日市鉄道を吸収合併したこと、(2) 昭和11年に参宮急行電鉄に吸収合併された伊勢電気鉄道の名称があることから、昭和6年~11年の発行と思われる。なお、昭和13年に完成した名古屋~桑名間の関西急行電鉄が赤色破線になっている。

残念ながら鳥瞰図には御在所岳などの登山道は画かれていないが、裏面に簡単な登山案内がある。次の2件の画像は日文研所蔵のものだ。

2 表面:鳥瞰図

この鳥瞰図は北から湯の山温泉を見ており、蒼滝が大きく画かれている。全体に上品な色使いで、中央に誇張された温泉地がある。鳥瞰図の下部に旅館案内の広告を置くことで表紙を含めて全体を五つ折りに納めているので、鳥瞰図はやや小さめだ。なお、当時は涙橋から西にある現在の車道は存在しない。

三重鉄道の終点から三滝川沿いの県道を自動車が往来している。さすがに駕籠はもう書き込まれていない、香雲橋は改修されたのか、自動車が涙橋付近まで入っている。昭和8年に寿亭(松仙閣)に宿泊した志賀直哉は「自動車が止まった所から宿まで更に二三丁徒歩で登らねばならなかった」と短編小説『菰野』に書いた。

温泉地の階段道は、大正13年の『関西第一の仙境 : 菰野湯の山温泉名勝図絵』以上に詳細に画かれ、銭波淵までの裏道登山道など細かな歩道も見える。蒼滝橋東に置かれた石灯籠(青滝不動尊常燈、天保10年)は現存している。昭和4年に建設された登録有形文化財の水雲閣(寿亭)も画かれた。現在の寿亭には解体された対山閣の大きな屋根瓦が置かれていたが、庭園内のことは承知していない。

三嶽寺の東側には近代的な大衆浴場「鹿の湯」が新設されている。裏面には、至るところに茶屋、名物売店、喫茶店等があると書かれているが、現在のような多数の旅館は存在しなかったか。旅館4軒の掲載があり、絵図に名称はないが、杉屋、寿亭の他に、涙橋正面が鉄道直営の香雪軒(後の近鉄観光ホテル)、大石橋の左が湯の山ホテルか。

3 裏面:湯の山温泉御案内

裏面には、湯の山温泉のほか、涙橋、三嶽寺(平松山温泉寺)、大石、長石、蒼滝、御在所岳、鎌ヶ岳などの解説が並ぶ。

御在所岳には表道・裏道と一ノ谷スキー場からの中道登山道がある。武平峠から三角点の道は記載なし。『近畿の山と谷』(昭和7年、国立国会図書館)は表道を「鳥居から約一時間、急ではあるが婦女子でも歩ける好い道だ」と書いた。

鎌ヶ岳には武平峠と水沢村山之坊からのほか、「最近新設せる」長石からの渓流に沿う道があると書いている。この案内書が発行された昭和10年頃には、現在の長石谷登山道が整備されていた。

山小屋』(昭和7年、国立国会図書館・要事前登録)に掲載の『鈴鹿山脈の一名山 御在所山』では、やたらと感動しながら紅葉の表道を登っている。そして、武平峠~鎌ヶ岳に登山道はないが「わけはない」との伝聞が書かれている。このルートは『近畿の山と谷』の鎌ヶ岳で「湯山越頂上から二時間弱」として単純だからと説明は省略されている。

4 湯の山温泉の鳥瞰図

湯の山温泉の鳥瞰図を掲載した観光案内書は、次の3件を承知している。

これらの案内書以降、湯の山温泉の大規模な鳥瞰図は承知していないが、扉絵に小さい鳥瞰図を使った案内書が幾つかある。次のものは寿亭の旅館案内書だ。

5 『渓谷美を誇る大発展の伊勢菰野湯の山温泉』

吉田初三郎の鳥瞰図を四つ折パンフレットの表紙に使っている。内容は上記鳥瞰図の視線方向を少し変更したもの。裏面に昭和13年10月印刷発行とある。昭和12月7月は盧溝橋事件、13年4月には国家総動員法が公布されたという時勢だ。

御在所岳の「頂上には木曾御岳神社の分霊が祀られ信者の登山多く」とある。どの程度のものだか承知していないけれど、表道登山口に並ぶ霊神碑を見ると相当の数の行者たちによる登山があったのだろう。

温泉周辺の地図には、御在所岳に裏道、中道、表道、武平峠からの道。国見岳に裏道から分岐する一の滝不動(岳不動)、ユルギ岩、天狗岩を経由する道。鎌ヶ岳に長石谷と武平峠からの道がある。昭和13年には鎌ヶ岳~武平峠~御在所岳三角点の登山道が整備されていた。『近畿の山と谷 訂補再版』(昭和16年、国立国会図書館・要事前登録)に「近年になって頂上から武平峠へ下る道が開かれた」とある。整備後90年程の現在は雨水に削られたのか随分な溝道になっている。

湯の山の思い出』(昭和17年、国立国会図書館・要事前登録)では、杉屋を開業した喜一さんから鎌ヶ岳には「立派な華表(鳥居)が建ちました」と聞いている。文中で昭和16年版の『菰野町史』を読んでいるので、この頃までに鎌ヶ岳山頂の小祠に皇大神宮が祀られていた。時局というものだろうか。

6 絵葉書『寿亭水雲閣』など

鳥瞰図は精細であるので情報統制のために製作が抑制されたらしい。鳥瞰図を画けなくなった絵師による湯の山温泉の絵葉書がある。次の絵葉書の画像は日文研所蔵のものだ。

絵師の前田虹映は吉田初三郎の弟子であり、湯の山温泉の絵葉書5枚を描いている。上の絵葉書は蒼滝橋付近から水雲閣(寿亭)を見上げたものだ。親柱の形からして、蒼滝橋は昭和8年に架け替えられたものだろう。蒼滝橋は令和6年(2024)にも架け替えられたが、親柱は昭和8年のものが継続使用されている。水雲閣への階段登り口には、現在も門や「寿楽荘」の石碑が残されている。階段の途中を車道(県道)が横切るようになってしまったけれど。

大石公園の絵葉書を見ると、昔々、大石に茶屋があったような記憶がある。用がなかったので記憶が曖昧なのは仕方ない。何だか殺風景になったとの印象しかない。大石橋は昭和12年に架け替えられており、上記鳥瞰図と絵葉書では橋の様子が違う。この絵葉書にある大石橋は架け替え後のものだろう。サクラの頃の賑やかさが感じられる。

戦後になって、再び鳥瞰図は画かれるようになったが、以前のような精彩を失ったとの評価だ。戦後の湯の山温泉については精緻な鳥瞰図を承知していない。この時期のパンフレットは、昭和21年の新円切り換え、昭和34年の御在所ロープウエイ開通、昭和42年の自動交換機導入による電話番号変更(『歴史こばなし第5巻』P42、こもの電子図書館)、昭和47年の鈴鹿スカイライン開通が発行時期の確認に使えそうだが、旅館やロープウェイ関係の観光案内ばかりで興味を持てないでいる。

(作成 2025.06.30)