その後知りえたこと
以下に書くことはいずれ各項目に振り分けるが、最初からそうすると何が新しい情報なのか分かりづらいので、とりあえず暫らくここにまとめておくことにする。
茨川については暫らく念頭になかったが、或る日名古屋の末岡という方からメールを頂き情報交換が始まった。末岡氏は「過疎化の分析 - 滋賀県永源寺町君ヶ畑及び茨川の場合 -」という卒論を書くために昭和43年(1968)茨川を訪れている。その後離村者の移住先を訪ねて取材もされている。私は筒井正さんを紹介し、すぐに名古屋で会われたそうである。
末岡氏は昔取材の折、北勢町の筒井みつ江さん宅(当時は利一氏が世帯主)に二晩泊めてもらったそうである。私のHPで懐かしく思い出され、お礼かたがたの筒井家訪問が実現した。34年ぶりの感激の再会に私も立ち合わせていただいた。ちょうど帰省中の正さんも駆けつけていただいて有意義な座談会となった。
8月4日その場に居合わせた人は次のとおり (敬称略)
筒井みつ江 利一氏長女。昭和30年離村。名古屋TVドンキホーテ隊の案内を務める。
筒井末良 奥村光信氏が部長だった頃の国鉄山岳部OB。みつ江さんのご主人。三重県の人。
筒井良夫 みつ江さんの長男。当時の末岡メモに「良夫ちゃん、みゆきちゃんと遊ぶ」とある。
姉のみゆきさんも懐かしいということで嫁ぎ先から来て下さった。
筒井かおり 良夫さんの奥さん。メールはこの方が取り次いでくださる。
筒井正 睦雄氏長男。茨川に最後まで残った一家。「廃村茨川の歴史と伝承」著者。甚目寺町在住。
筒井安男 正さんの実弟。家督はこの方が継いでいる。北勢町在住。
末岡千廣 茨川名大小屋設立当時のWV部員。卒論に「過疎化の分析」。名古屋市在住。
私 当サイト管理人。
法政大学茨川調査について 廃村以前(昭和36年)に法政大学による調査が行われた事は知っていたが、調査報告書については大学側に問い合わせてみても古い話なので不調に終っていた。しかしその時の模様を載せた朝日新聞の記事を入手したので公開しておく。「湖国と文化」に載っている対岸の尾根からの俯瞰写真はこのとき法政大学写真部が撮ったものである。
@ 石井正治郎(元小椋駒次郎宅)
A 筒井正吉(筒井勉)
B 同倉庫(現存)
C 筒井実
D 坂田勇(旧姓筒井)
E 政所小学校茨川分校(現八幡工業山岳部小屋)
茨川林道について 当初この林道は茨川集落のためにつけられたと思っていたが、実は地区が要請したものではなく、民間会社が製紙用チップの原木を運搬するために施工したものであることが判明した(末岡氏卒論)。みつ江さんによればその会社は丸紅と若林製紙であり、そこに社有林があったのである。太夫谷まで林道はつけられたが、そこまで来たのならということで残りは茨川の各世帯が山の持分に応じた負担金を拠出して林道は完成した。自治体の補助もあったようである。
名大WV部小屋について 昭和41年7月に末岡氏らが看板取り付け。上級生が筒井睦雄氏と交渉。現在次男の安男氏と契約続行中だがあまり使われていないようである。睦雄さん宅は離村2〜3年前に屋根を葺き替えたばかりであった(写真特集参照)。現在被っているトタンはのちに名大が取り付けたものである。なお旧みつ江さん宅倉庫(今はない)に掛かっていた「国鉄山岳部茨川前進基地」といういかめしい名の墨痕鮮やかな看板は末良さんが保管している。
茨川詳細絵図について 誰も知らないと思うが小椋安次郎氏の孫にあたる女性が書いた「茨川、三筋の滝を訪ねて」という紀行文がある。離村者の子弟で構成する「いとこ会」で父祖の故郷茨川を訪れたときのものである。そのなかに蛇谷出合までに上茶屋・蓮華寺・的場・徳念防・源次郎岩などという地名が登場する。みつ江さんや正さんに具体的な場所を尋ねていたら、こういうものが伝わっていると出してきてくれたものは筆で書いて水彩で色付けされた見事な絵図。表具して巻物になっている。これにその地名(小字)がすべて載っていた。誰が書いたか分からないが、父の利一さんが書いたものではないということでかなり古いと思われる。しかし三重県という文字があるので明治に描かれたものだろう。祖父音吉氏作か?
末岡氏写真特集 ここをクリック
その他 茨川と関係の深い新町の治田鉱山の写真をBoneさんから頂いたので掲載しておく
鉱山に執念を燃やした伝説の五代アイ(右) 真新しい大通洞坑の橋