あ と が き 1
御池相聞五一首を結ぶにあたって
御池杣人
この相聞五一首を僕は「鈴鹿御池岳相聞五一首」と呼称しよう。
これら五一首すべては御池岳に関わっての相聞歌であるところに特徴がある。内容はさておき、五一首応答が続いたということは、おそらく空前のものではなかろうか。鈴鹿山脈全体を背景にしたとしても、量的にこれを越えるものは知らない。いや、御池岳や鈴鹿という山だけでなく、もっと背景を広げたとして、そもそも百人一首をパロディー化した相聞歌が五一首続いた例を僕は寡聞にして知らぬ。この意味で空前ではなかろうかと自負している(郎女氏ならびに葉里麻呂氏はどう評価しているかは知らないが)。ただし、絶後とは言わない。この後に続くオタンチンな人々は必ずいると確信している。(ただし、有名な相聞で僕の好きなものに晩年の良寛−70代と貞心尼−30代−の人間存在のすばらしさを歌った相聞がある。これはもちろんパロディーではない。)
発端は葉里麻呂氏(相聞途中に改名、したがって「管理人」といったり、「満作」と呼んだりしている)の「鈴鹿百人一首」であった。このアホさ加減の見事さに深く感じ入ってしまった僕は、すぐその真似を始め、パロディー道を遊ぶこととなった。御池杣人と自称する僕は、あくまで「鈴鹿」ではなく「御池岳」にこだわって、「百人一首」パロディーをどこまでできるかわからないけれどめざすことにした。
「ミルキーあんぱん」の歌はその途上の迷歌である。ところが何首か作るうち、在原業平−「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは」という落語でも有名な歌を「霧雨降る 視界もきかず 御池岳 空晴れないに 笹くぐる汝は」と己を第三者に設定し、「誰かこんなふうに言ってくれないかなあ」とたわけたことを現代語訳にしたためたところ、全く予期せぬことであったが、柳沢郎女氏より「霧雨の 御池の笹原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」と返歌をいただいたのである。返歌には返歌を送るのが礼儀とこころえている僕は、これに応え「見せばやな 御池のササに 袖だにも ぬれにぞぬれし 帰路はわからず」とした(ここで百人一首には袖が濡れるという表現がたくさんあるんだなあと初めて知った次第)。
ここからだ。殷富門院大輔の歌の結び「色はかわらず」を、語呂のよさから「帰路はわからず」としてしまったこと、さらにはこの歌にも返歌をいただくことになって、僕は御池岳をさまよって、帰るに帰れなくなってしまった。
@百人一首のどれかの歌をもとに、それをパロディー化しながら、Aかつ御池岳と関連した内容で、Bさらには前の歌をふまえて応答をする(相聞)、という3つの条件を備えた、それなりに困難?な遊び。
僕は郎女氏の返歌を読み・詠みながら、どこまで続くか、いけるところまでいってみるのも面白いかなと思い始めた。郎女氏とは直接お目にかかったことはないが、氏は僕の御池岳道楽本シリーズへの読後評として、クラシック音楽を駆使して評された方(例えば鈴北岳から眺める御池岳丸山−池の平あたりの茫々たる世界はメンデルスゾーンの「スコットランド」が聞こえてくると。僕は不勉強でそんな曲知るはずはない。ただちにCDを買い求め聞けば、おお、あのおなじみの世界が見えてくる。近いところでは巴菜女氏憧れの人、かの近江の凉山人氏も奥の平の東のボタンブチにて、シベリウス「バイオリン協奏曲」を聞きながら昼寝をしたという。僕はシベリウスのその曲も知らず、早速買い求め、聞けばまさに奥の平東のボタンブチの世界広がる。山の世界は僕を文化のいろんなジャンルへ案内してくれることよ。思えばこの百人一首にしても、僕は幼少期以降、坊主めくりしかしたことがない。それゆえ今回は島津忠夫訳注『新版 百人一首』角川文庫、有吉保『百人一首 全訳注』講談社学術文庫を買い求め、ここまで来たのであった)であり、御池岳シリーズをかような方法で評される方ならば、しばしオタンチン道をおつきあい願えるかもしれぬと。
この先どうなっていくか、全くの不明。何のうちあわせもなし。そんな条件でも、せっかく郎女氏と葉里麻呂氏が遊んでくれているのだ。どうなるのやろと余り考えず、どこかへやがて落ち着くやろと、届く歌を反芻し、これまでの経過も大切にして、返歌を綴ってもがもがと珍奇なる注釈をつけ解説をこきまくり、アンポンタンな遊びをしていった。
結局のところ、この五一首の表現する経過は、一晩目はおそらく奥の平の東峰あたりのオオイタヤメイゲツ林、二晩目は廃村茨川に野宿して、郎女のもとへと立つまでのことにすぎない。その間、風邪ひきのハナズルズルと、腹へったー、何か食べてゃーを加味したが、ほとんどそれだけの内容に半年以上遊んでもらえたのである。
こと御池岳に関してなら、僕は途中撤退(雪深く、長命水までも到達できなかったことが何度かある)はすれど、このように帰れなくなってしまうという愚かなことはしない。ほとんどの地形は頭の中にあり、よほどの事故でなければ下山する。しかし、下山してしまったら、相聞は続かぬ。そんなこんなのフィクションかつアドリブの出たとこ勝負の珍妙なるやりとり。ごらんのように五一首に至った。まだ続けようとすれば不可能ではなかろうが、しかし、こういうのは爽やかに、かつ余韻を残すのがいい。四五首あたりのやりとりくらいから、語呂のよさから五一首でフィニッシュできればと密かに考えてはいた。郎女氏と葉里麻呂氏にはおよその意志を伝えつつ、結びにむけて相聞?を続けた。
いつもすらすらとできるわけではない。パロディーのでき具合、展開に不自然さはないか、支離滅裂でありながら、それなりの筋を通すことに留意してきた。苦労?した歌もなくはない。それはどちらかと言えば、展開をどうするかの方に比重があった。ただし、内容的にたじたじになったこともあった。二〇首の「さしもじらしな もゆる思いを」−にはたじたじ。こう直線的に歌が届くと、返歌は悩む。「じらすもじらさないもないのですよ。本当に帰れなくなっているのですよ」とこんな内容を頭に浮かべつつ「百人一首」をあれこれ読む。蝉丸の「知るも知らぬも」を使って何とかできそうか。主題は「じらすもじらさぬも」でいける。しかし、結びの「相坂の関」に今度は困る。鈴鹿に〜坂はどんなのがあったか。ただし、御池岳から遠くてはダメ。ふと西尾氏の大著の記述「ノタ坂」が浮かぶ。やったぁ。あそこなら土倉岳経由のルートで不自然でない。「関」はどうする? あれこれセキセキセキとやっているとツキ(月)でいかがと浮かぶ。それが、二一首目の作となった。
時間的経過で困ったのは三四首をいただいた時。「日がくるるとは」とあり、あれまあ何もしないうちに夕方になってしまった。結局僕は「するめ」をちびちびぼーっとなめていたら夕方になってしまったという設定にして、百人一首から該当する歌を探すことに。「夕されば」を使ってノタノ坂から茨川に下って夜になったことにした。
四九首の「附子」については、まず郎女氏が病に臥していることになっているので、返歌として「臥した君〜のところへ帰りなむ」というような内容の歌はないか、そこから作を始めていたら結びに「今かえりこむ」の歌がある。これは使えそう。とすると「まつとしきかば」をどうするか。本歌が「いなばの山の松−待つ」ならば、御池の山ならば何か。ふと「臥す」と「カワチブス−附子」がひらめいた次第。こんな面白いことも作っていく過程にはある。
また、目茶苦茶古文法研究の発展?にとっても、この相聞は意義深い。「かけ詞」から「がけ詞」「かーけ詞」等々。そのうちの最大の功績?は郎女氏の提唱する「やけ詞」であろう。古今、新古今あたりの作者も「ヤケクソ」に掛けた歌が必ずあるに違いない。そんなふうに鑑賞するのも解釈の幅が広がって面白いかもしれぬ。
学生諸君にこの相聞を読ませると、「管理人解説」が一味あって効いているという。毎回届く相聞パロディーに、短い言葉でひねりの効いた「解説」。これがまた展開の幅と奥行きを広げてくれている。ある意味では相聞のやりとりよりも、毎回の「解説」の方が難しいのではなかろうか。事実、郎女氏がどんな返歌をくれるか、これはまこと楽しみではあったが、葉里麻呂氏がどんな解説をつけてくれるかも同時に楽しみであった。
展開上、説明が必要な時、僕は勝手に「後世の注釈者」を登場させ、別の角度から展開を補強すれば、管理人・葉里麻呂氏は「管理人の曾孫」氏まで登場させ、さらに不足を補って肉付けと厚みを加えてくれた(おかげさまで僕はあんぱんの食べ過ぎで、葉里麻呂氏はバナナの皮で滑って、いずれこの世を去ることが判明した。それもよかろう)。
こうしてみると、この相聞は、相聞でありながら、僕、郎女氏、葉里麻呂氏のパロディー的響きあいであったといえるかもしれぬ。この三者の遊び心の響きがあって、はじめてここまで可能だったのだ。
多忙な日々にあって毎回、返歌を読み・詠み、「解説」を読み、吟味し、さらなる返歌をあ〜だこ〜だ考えて、言葉の本当の意味で「でっちあげる」ことは、生活上のささやかなハリでもあった。就寝前など、一人クックッと笑いながら、考えつつ寝てしまったことがしばしばあった(ちょっとあやしいか)。
この相聞を結ぶにあたって、よくもこれだけアンポンタン的オタンチン的な世界におつきあい下さった郎女氏、葉里麻呂氏に御礼申し上げたい。遊びも発展すれば、これだけの遊びとなる。
また、機会あらばこんなオタンチンなことをやれる日の来ることを。
2002年1月