あ と が き  3

 


相聞をふり返って         

                               管理人

 柳澤氏(郎女)の機知から発した相聞シリーズが延々続き、第五一首をもってめでたく結びと相成った。当初は鈴鹿百人一首として掲載していたのだが「返歌うち止まず先の展開測り難し」ということで急遽朝臣、郎女の相聞コーナーとして独立させた次第である。
 返歌と言う粋なセンスをお持ちの方が、そう多いとも思われない当サイトの読者の中に二人揃ったことは奇跡的なことであり、当サイトの誇りでもある。果たしてこの相聞の読者が何人くらいあったのかは把握できないが、例え読者の無い遊びだと仮定しても意義のある試みであった。二重三重の制約の中でよくぞここまで続けられたと思う。生みの苦しみはあっただろうが、山登りと同じでそこが面白い所でもある。お二人ともきっとこの相聞を楽しまれたことと思う。
 私もお二人の作品一首一首に解説(コメント)を付けることが密かな楽しみであった。作者の意図に沿わないピント外れのコメントもあったと思うが、寛大なるお二人に容認いただいてきた。私の和歌に対する知識は甚だ心許ないものであり、曲がりなりにも(曲がりすぎていたが)解説を加えるにあたり文献やらインターネットで調べ物をすることを余儀なくされ、僅かではあるが知識が増えたことは望外の収穫であった。

 あとがきを書くにあたり、ざっと最初から読み直してみると、やはりお二人の特徴が良く現れていることに気付く。御池杣人氏の作品は原作の韻になるべく忠実であろうとする生真面目さの中に、アンポンタンでオタンコナスでタワケな言葉を交えて読者を笑わせる。思いつくものを挙げれば、しだりバナ・揚げやらぬ・おしくらまんじゅう・芋煮出にけり・ももや思ふと等々。なかでも「朝餉の夕御飯」はそれらをも超越して紙一重の発想であった。この人ホンマに大丈夫かしらんと心配したほどである。それでもちゃんと返歌になっているのは、さすが文系のプロフェッサーである。
 対する柳澤氏の作品は技巧に走らず、百人一首の底流にある女性の情感や情念に重きを置いた作風に見受けられる。まさに女性にしか詠めない歌が多く、独立した歌としても通用する作品もあった。
 むろん御池杣人氏の歌にも情緒的に優れたものもあるし、柳澤氏の歌にもコミカルなものや技巧的なものもあったが、全体的な印象は上記の如くである。

 正月に何気なくテレビのリモコンをいじくっていたら「競技かるた日本一を決める第四十四期クイーン位決定戦(全日本かるた協会主催)」なるものを放映していた。和服の女性が神経をピリピリさせて、鬼のような形相で札を張り飛ばしていた。歌の内容とは裏腹に、甚だ優雅ならざる遊びである。読み手が声を張り上げる度に、ああこの歌はこんな風なパロディーになっていたなあと一首一首思い出して面白かった。
 それはいいのだが、困った問題が起きた。上の句からパロディーは思い出すが、本歌を忘れてしまっている事に気付く。それ程深く私の脳裏には鈴鹿百人一首やこの相聞が浸透していたのである。
 まあいいか。私は学生じゃないから試験で 「ももや思ふと 人のとーふ迄」と書いて恥をかくこともなかろう。    

 最後に、長い間労作を投稿頂いてきた御池杣人氏と柳澤郎女氏に感謝申し上げます。充電をされて、また書きたくなったらいつでもお待ちしております。

                                            恐惶謹言

                                           二千二年 一月     葉里麻呂


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