1. 鈴鹿山脈/登山日記
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画家・司馬江漢による旅行記。江戸から長崎へ向かう途中に、四日市、菰野、神戸、津、伊勢、鳥羽、椋本、関、坂下、土山、鎌掛、日野を歩き、挿絵に湯の山温泉石大神、屏風岩などがある。ただし、詳細に記述された未刊行本「江漢西遊日記」には石大神、屏風岩がない。訪れた記録がないので伝聞により描いたものか。

司馬江漢は天明戊申四月二十三日(1788.05.28)に江戸を出発し、三ヶ月後の七月二十日(08.21)に雨の中、湯の山温泉へ入っている。「塩尻」から約80年後のことだ。

湯の山全圖がある。「冠ヶ岳御◯◯ヶ岳アリ」を写本早稲田大学図書館)では「冠ヶ岳御産所ヶ岳あり」と写している。「ヲバレ石」もある。温泉滞在中は風雨。どれ程の風景が見えたものか。八月下旬のことなので台風だろうか。四日市から来た遊女達(お山)も帰られずにいるなか、下山を強行する。帰路は大雨。以上、卷之一。次巻では人魚塚、石塔寺に立ち寄る。

本書(国立国会図書館)は西遊旅譚のタイトルを変更して再刊行されたものだが、内容は同じ版木を使っているとのこと。江漢西遊日記解題に詳しい。

国立国会図書館デジタルコレクションなどにて閲覧した。(作成 2019-07-01、更新 2022-07-20)

伊吹山の記事が15ページ分ある。「近頃江州伊吹山の頂上に、不格好な石造の日本武尊の立像が立てられた。」で始まる。何だか偉そうな人だ。5月末に登山している。鈴鹿の記事はない。

国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。(作成 2022-07-19)

湯の山温泉に滞在した3日間の印象を記した小冊子。佐々木信綱の序歌に始まって、「湯の山湯治場」(司馬江漢)、「湯の山案内図」「湯の山温泉」(三嶽寺所蔵古木版)など数点の図画を収める。

大分前のこととして、ゆるぎ石経由で「山」に登っているが、「頂上に登るのには、大部汗を流したが、それでも湯下駄で行ける平易さである」は創作か。頂上には「小さい祠が、唯一つ。それを囲む瑞垣には、色々の落書きが、眼に付く」はリアルっぽい。

この他に、温泉に縁のあった俳人・横井也有、画家・司馬江漢、歌人・鈴木小舟についての小編を含む。なお、作中にあった鈴木小舟の歌集は本書と同年に刊行されたようだ。

四日市市立図書館にて閲覧した。国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2002-02-17、更新 2022-09-19)

  • 三角点第5号

  • 編者:京都府立京都第三中学校山岳班O.B.会
  • 発行:京都府立京都第三中学校山岳班O.B.会
  • 1942(S17) 136p
  • 国立国会図書館:送信資料

太平洋戦争の開戦前後、昭和16年~17年の山行記録。時局が前書や地図の販売制限として現れている。

鈴鹿は次の4件。真珠湾攻撃直前の昭和16年春~夏の記録とのこと。地形図は変わり、ダムで地形も変化して、そのルートを追い切れないけれど。茨川や榑ヶ畑の村では子どもが遊んでおり、山へ入れば炭焼きの人々に出会う時代だった。

旧制中学校の生徒なので、現在の中学生・高校生くらいの年齢でまだ子供だ。出合った山仕事の人達の扱いも子供扱いというものだろう。巻末には山岳班員の名簿があるので著者の年齢の見当をつけられる。良家のぼんぼん達なのだろう。

案内人に従って20人で登った伊吹山の夜間登山の記録(巻末の班記と日付が一致しないが)もある。蛇の穴とかは何処だろうか。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧した。

追記 2023.01.14:国立国会図書館内限定の資料に変更された。以前は保護期間満了に区分され公開されていたのだが。個々の著者の名前があるので、団体とか著者不明の著作物として扱えなくなったのか。

追記 2024.06.26:送信資料として再分類され、制限付きだがネット閲覧が可能になっている。(作成 2013-06-15、更新 2024-06-26)

鈴鹿関係の紀行文が幾つかある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-07-19)

  • 湯の山とその周辺

  • 著者:山口誓子
  • 発行:菰野町観光課
  • 1964(S39) 99p B6

「御在所岳登攀記」を含む12編を収めた小冊子。俳人・山口誓子は、病気療養のため、昭和16年に富田(四日市市)に移り住んでいる。その後、21年に天ヶ須賀、23年に白子町鼓ヶ浦(鈴鹿市)と転居し、28年に西宮市に転居するまでの12年余りを四日市周辺で過ごしている。

収められているものは、富田に移り住んで以降、湯の山温泉や聖宝寺(藤原岳)を訪ねたものや、鈴鹿に関する自句を語ったもの。昭和31年の御在所岳登山や、ゴルフ場が出来る前の絵野高原の様子など、興味深く読んだ。

  • 御在所岳登攀記     鈴鹿の山山
  • 鈴鹿山脈に沿うて    御来迎
  • 春の御在所岳      夏の御在所岳
  • 御在所岳の観月句会   早春
  • 松僊閣六号室      絵野
  • 谿間にて        自句を語る
  • 後記

やがて時は移り、遠くに望んでいた御在所岳の白い雪嶺にロープウエイが架けられ、その山頂にジュースの空き缶が投げ捨てられるようになっては、誰しも夢から覚めたような気持ちになるに違いない。

四日市市立図書館にて閲覧した。(作成 2002-01-20)

鈴鹿紀行がある。出所は『山小屋』昭和15年2月号とある。

国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2022-07-20)

峠の紀行文であったり、その風物や歴史が語られたりする。残念ながら現地を歩いた期日が明記されていないが、昭和47年の発行ではある。

鈴鹿山脈の周辺については次の峠の記載があり、文中には当時の写真(モノクロ)が掲載されている。倉歴越、坂下峠(白馬越)、鈴鹿峠、安楽峠、水沢峠、武平峠(湯の山越)、千種越(根の平峠・杉峠)、八風峠、石榑峠、治田峠、鞍掛峠(大君ヶ畑越)、五僧越(保月峠・杉坂峠)、摺針峠、美濃越(中山道)

廃村茨川」では、廃村後の茨川集落で植林のために泊まり込んでいた家族と出会っている。「五僧峠」では残っていた三人の老人たちに声をかけた。杉坂峠の急坂を下りた神様が「ああ、苦しい」といったので「栗栖」という地名になったとは知らなんだ。神様でも下山は苦しいものか。

「武平峠」には司馬江漢が湯の山から武平峠を越えて日野に出たとあるが、おそらくは間違い。参宮後に伊勢別街道から鈴鹿峠を越えている。

鈴鹿の峠に関しては内容が様々で、紀行文というより歴史解説のようなものがある。国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。(作成 2024-07-14)