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  3. 2004年2月8日

鈴鹿:藤原岳

2年振りの藤原岳。避難小屋から山頂部の東端、セメント鉱山の真上にある袴ヶ腰の三角点(1009.6m)へ下降し、登り直すのは苦痛だが展望丘(山頂)にも立ち寄ってきた。まずまずの空模様。山頂部の喧噪には縁が無かったが、かなりの人出だったようだ。

登山日
2004年2月8日日曜日
ルート
大貝戸道-避難小屋-袴ヶ腰-展望丘(山頂)-大貝戸道

三重県の地理情報システム(GIS)

三重県のGISサイトにて、藤原岳の山頂部を最大尺度で見ていると、展望丘と袴ヶ腰三角点の中間地点に、なにやら構造物が書き込まれているのに気付いた。ここには何も無かったはず。しかし、避難小屋や北西峰のヘリポート跡も同様に書き込まれているので何かあるらしい。ヤブっぽいけれど、袴ヶ腰までは展望丘付近のように背丈を超えるササに悩まされることはない。雪があれば、なおさらのこと。【注:本文の構造物などの書き込みはなくなった。代わりに、他のものが書き加えられた。2011-02-07 現在】

さっそく出掛けてみたが、雪に埋もれているものか目標物を見つけられなかった。

藤原岳

写真1写真2 石像写真3

西藤原小学校の北側にある有料駐車場に自動車を置いた。(普通車300円)なぜか5台しか置かれていない。なお、新しい便所が出来ている。

小学校から東へ歩き、藤井電器店で右折して登山口へ向かうと、すっかり雰囲気が変わっていた。(写真1)度重なる土石流被害のため、狭かった西之貝戸川が拡幅され、随分と見通しが良くなっている。また、「藤原岳登山口休憩所」が新設されており、こちらの駐車場は自動車でいっぱいだった。

神武神社からルート変更された登山道へ入り、新しい堰堤で従前の登山道に出る。

2合目では、石像が随分きれいになったように思える。右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王の姿だ。(写真2)

6合目付近から雪道になり、聖宝寺道が合わさる8合目はたっぷりの雪。冬道を登って避難小屋へ到着すれば、展望丘へは広いトレースが出来ていた。(写真3)

避難小屋の東側一帯は、ネコの尻のように柔らかい曲線が袴ヶ腰(三等三角点)まで下降線を描いている。その東は石灰岩を採掘している藤原鉱山の断崖だ。(この付近は火薬を使用した発破作業などしており危険があるかも知れない。)

写真4写真5写真6写真7

避難小屋から展望丘へのトレースを降り、最低鞍部へ下降する手前から東へ向かう。ヤブのなかのドリーネも、いまは姿を現している。(写真4)

藤原町と大安町(現在はいなべ市に合併)の境界の南側を東進するが、GISにあったものは見当たらない。そのかわり、前方左手に鉄塔のようなものが見えたので、コースをはずれるが行ってみる。(写真5)

この鉄塔は仮設のものに思えるが何に使うのか。袴ヶ腰三角点から北西に約300mの地点にあり、展望丘からは見えない。また、東の鉱山から太いホースが伸びてきているようだ。

ここから、小さなピークを持ち上げる袴ヶ腰の三角点へと町境界線に戻って下降する。

袴ヶ腰には赤白のポールが残っているが色あせた。(写真6)そして、その横には新しい対空標識が立てられている。やはり、この付近一帯でなにか作業が始まるようだ。

地形図とは違って鉱山は三角点直下まで迫り、作業道が上がってきている。三重県の新しい雨量観測装置と役目を終えたであろう百葉箱が設置されていた。

三角点からは、左下に多志田谷の断崖を見下ろしながら展望丘へ向かう。(写真7)やはり、構造物は見当たらない。あるいは雪の下か。展望丘へは130mの高度差があり、ワカンでもときおり雪面を踏み抜くので苦痛だ。

到着した山頂には、すでに登山者の姿はなし。ワカンをアイゼンに履き替えて、大貝戸道を下降した。

7合目を降ると、右下の谷がえぐり取られていることに気付いた。(写真8)平成14年7月18日の産経新聞・Web版には次のようにある。

写真8

「三重大の林拙郎教授(山地保全学)は同地区について『98年春に起きた局地地震で斜面が崩れ、上流に大量の土砂がたまっているため1時間50ミリ以下の雨でも土石流が起きる』と指摘、今後も警戒が必要とみている。」

山が姿を変えるのは当然のことだろうが、荒れていくのを見ることは耐え難いものがある。

登山口に出来た立派な休憩所は、まだ下水工事が完了しておらず、便所が使用できないとの貼り紙があった。

行程表

8:56神武神社・鳥居
11:20避難小屋
12:35袴ヶ腰・三角点(12:35-12:50)
13:57展望丘(13:57-14:17)
15:53神武神社・鳥居
(作成 2004.02.10、改訂/書式等 2012.11.11)