米原町榑ケ畑の民俗
- 編著者:滋賀民俗学会
- 発行:滋賀民俗学会
- 1966(S41) 61P
- 国立国会図書館:送信資料
廃村となっていた榑ヶ畑の民俗調査。書誌には「落丁あり」とあるが、ページは揃っているように見える。
表紙裏に周辺地形図、そして目次。第2章「地理」に石楠花や御所に献上していた単弁のフクジュソウの話がある。第3章に歴史、第4章の「村の構成」には村内地図がある。醒ヶ井への移住の経緯はP19に出作りに端を発したとある(P36で再話、P43に移住後の生活)。第11章「生業」に米は平均三俵余でさすがに少ない。ゴボウ、炭焼き、植林など。第13章「交通・交易」には、彦根道(彦根~鳥居本~仏生寺~男鬼~榑ヶ畑)から車道(米原方面)に変化したこと。第14章「年中行事」に「土用見舞と雨乞い」(P57~58)。
国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。なお、本書は坂田郡米原町榑ケ畑民俗資料緊急調査報告として滋賀県教育委員会から1968年に増補されて再度出版されている。(作成 2022-08-27)
滋賀県文化財調査報告書 第3冊-坂田郡米原町榑ケ畑民俗資料緊急調査報告
- 編著者:滋賀県教育委員会
- 発行:滋賀県教育委員会
- 1968(S43)
- 国立国会図書館:送信資料
「米原町榑ケ畑の民俗」の内容に少数の追加をして第1部「概要編」、第2部「民俗編」に分け、民俗編の末尾に第6章「周辺の村々」、第7章「榑ヶ畑周辺の石造美術」を追加したもの。
第6章「周辺の村々」には第1節「旧上丹生村」、第2節「芹川上流・彦根道に沿って」に旧霊仙村、旧河内村、旧武奈・男鬼村。何故か追加された第7章「榑ヶ畑周辺の石造美術」には、松尾寺、安養寺、八幡神社(南後谷)、西徳寺(多賀大社)。
国立国会図書館デジタルコレクションにて個人送信されている。なお、「高島郡今津町天増川民俗資料緊急調査報告」が同冊子にある。(作成 2022-08-27)
伊勢国八風峠霊異誌 増補版
- 編著者:宇佐美景堂
- 発行:霊相道
- 1972(S47) 155p B6 書誌
本書は「伊勢国八風峠霊異誌」「八風峠陶埋一件控」「伊勢田光地誌」の3部で構成されている。このうち「伊勢国八風峠霊異誌」は八風峠の「お菊伝説」について「『心霊と伝説』の関連性を明らかにしたもの」とある。
八風峠の周辺地域では、八風峠(八風神社)へ陶器を持ち込めば気象異変が起こると信じられていた。原因は陶器に関わる事件で自殺した「お菊」の心霊が陶器を嫌うため。江戸幕府は峠への陶器携帯を禁じ、寛政8年(1796)からは伊勢・近江の村人による通行人の警戒が夏・秋の米作期間中に行われている。
しかし、この気象異変を利用して周辺地域の穀物相場を操作しようとする者があり、峠に陶器を埋める事件が発生した。この記録が「八風峠陶埋一件控」であり、犯人は江戸へ送られて牢死している。
このような考え方は、明治41年に八風神社が多比鹿神社に合祀されるまで続いたとのこと。平成11年に三池岳に登ったとき、「お菊さんへ」と書かれた粗末な皿がお菊池に置かれていた。100年前なら、戯れ事では済まされなかったことのようだ。なお、発行元の「霊相道」は著者を代表者として設立された宗教法人。
四日市市あさけプラザ図書館にて閲覧した。なお、国立国会図書館デジタルコレクションにて、1931年(昭和06)発行の初版と思われる『八風峠霊異誌』が個人送信されている。僅か19ページの冊子だ。(作成 2002-03-09、更新 2024-03-05)
郷土の山々 鈴鹿山系と大台ヶ原山
- 著者:大川吉崇
- 発行:大川学園編集部
- 1973 (S48) 130p B5 書誌
伝説、宗教、歴史に関する一冊。「はしがき」には、全国高校総体の登山競技が大台ヶ原山を中心に開催されることを機に資料をまとめたとされている。大台教会を開いた古川教主や日本オオカミの話など興味深く読んだ。なお、鈴鹿山系については、後の「鈴鹿山系の伝承と歴史」が詳しい。
- 目次
- はしがき
- 須受我嶺
- 鈴鹿山系の名所・由来
- 鈴鹿山系と宗教編
- 原始自然信仰と鈴鹿山系
- 仏教伝来以降の宗教と山系
- 伝承の宝庫と夢の世界
- 変身鈴鹿姫と坂上田村麿、鈴鹿の山賊たち、
- 鈴鹿峠の歴史と関
- 民話と伝承を訪ねて日帰り山行
- 湯の山・御在所・鎌ヶ岳コース
- 鈴鹿山系の変遷
- 古生物の時代から自然保護の時代へ
- 鈴鹿山系 概念図と地名由来・伝承
- 大平原
- 大台ヶ原の動物たち
- 美しき日本ジカ夫妻、幻の日本オオカミ、
- 人まね上手なドタヤン、山の兄きと酒
- 大台ヶ原の伝説
- 一本足のただら、義経と伝承、神代の伝承
- 大台ヶ原の宗教
- 自然信仰大台教
- 大台ヶ原山 概念図と地名由来・伝承
- 参考文献
四日市市立図書館にて閲覧した。(作成 2002-01-12)
鈴鹿山系の伝承と歴史 今昔の史書と郷土を愛する人の地誌
- 著者:大川吉崇
- 発行:新人物往来社
- 1979(S54) 203p A5 書誌 書誌
- 国立国会図書館:送信資料
鈴鹿山系にかかわる歴史や伝承をまとめた一冊。鈴鹿に関わる伝承・信仰が整理されており、混乱していた断片的な知識を整理してくれる。分量がもう少しあればと願うのだが、ないものねだりか。
- 第一編 伝承の宝庫と夢の世界
- 戦国武将の山越え路
- 変身鈴鹿姫の山越え路
- 鈴鹿の山賊たちの棲む山越え路
- 親王とお椀の山越え路
- 第二編 信仰の世界と山
- 御在所岳は修験の山
- 竜神と農耕信仰の山
- 道案内の山の神
- 石仏の安置される山
- 第三編 三つの山路案内
- 鈴鹿山系銀座コース
- 中央渓谷と山越えコース
- 歴史の一面と自然観察のコース
- 第四編 伝承と歴史の愚痴
- 須受我嶺
- 鈴鹿の関と山系
平成15年、新書版にて伊勢文化舎から復刊された。旧版を四日市市立図書館にて閲覧した。また、国立国会図書館デジタルコレクションから個人送信されている。(作成 2001-11-10、更新 2022-07-21)
霊仙三蔵
- 著者:藪田藤太郎
- 発行:サンブライト出版
- 1982(S57) 304p B6 書誌
遣唐僧・霊仙三蔵の物語。伝記。歴史小説。
長息氏の嫡男として生まれ、霊仙山上の霊仙寺で少年期を過ごす。奈良・興福寺で得度して法相を学び、最澄、空海らとともに遣唐使として中国へ渡り、訳経に関わって日本人で唯一の三蔵法師となる。しかし、帰国が許されないままに仏教擁護派の皇帝が暗殺されるや、仏教弾圧下、五台山へ脱出したものの毒殺された。
その後、五台山を訪れた慈覚大師・円仁は、渤海僧・貞素が残した詩文により霊仙の事跡を知る。感動的。(どうにも、涙もろくていけない。)
霊仙に関する資料は非常に少なく、とくに興福寺以前のことは良く解らないらしい。ほかに、「尊意僧正」「宮部継潤」の短篇を併載している。
追記:霊仙寺が存在することの根拠であった「興福寺官務牒疏」は偽文書(2018-07 広報まいばら)とのこと。(作成 2004-04-24、追記 2018-07-11)
鈴鹿山地の雨乞 湖東・養老をふくめて
- 著者:西尾寿一
- 発行:京都山の会出版局
- 1988(S63) 175p B6 書誌
湖東・養老を含めた鈴鹿山地における雨乞の調査記録。
「雨乞の変遷と習俗」と「鈴鹿山地の雨乞」の2部構成。後半は136例の雨乞事例集。しかし、ダム建設などで雨乞の必要が無くなり、雨乞儀礼が途絶えてから時間が経過したため、詳細が忘れ去られたり、雨乞の存在そのものが不確かであったりするものも多数含まれている。
幸い平成13年時点でも在庫があり、ナカニシヤ出版のサイトにて購入。(作成 2002-02-13)
江戸時代の御在所登山
- 著者:久保田孝夫
- 1989(H01) 55p B5
江戸時代 御在所岳・鎌ヶ岳登山(改訂版)
- 著者:久保田孝夫
- 2007(H19) 106p B5
菰野藩主・土方雄興の登山記録「おく山ふみ」、津藩の顧問学者・津坂東陽の「遊菰野山記」を主として、その他4編の古文書を引用し、当時の湯の山温泉や御在所岳の様子が紹介されている。
- 天野信景「塩尻」 享保5年(1721)
- 堀田方臼「護花関随筆」 延享元年(1744)
- 横井也有「続鶉衣」 宝暦5年(1755)
- 津坂東陽「遊菰野山記」 安永6年(1777)
- 司馬江漢「江漢西遊日記」 天命8年(1788)
- 土方雄興「おく山ふみ」 文政3年(1820)
登山の行程を追いつつ、「江漢西遊日記」「塩尻」から風景図などを引用している。虫眼鏡を引っぱり出して詮索して見るが、現在の場所とはなかなか一致してくれない。巻末には、前記の2編と土方雄興の鎌ヶ岳登山記録「冠岳乃記」(文政5年)が収録されているが、古文や漢文には歯が立たない。興味津々。四日市市立図書館にて閲覧した。
その後、平成20年に新設された菰野町図書館の郷土資料コーナーで改訂版に出会った。「おく山ふみ」「遊菰野山記」(御在所岳・表道~中道)に併せて、「冠岳乃記」(鎌ヶ岳・武平峠から)でも登山の様子を追っている。風景図なども大きくて見やすい。禁帯出なので昼食抜きで3時間ほど熟読した。もちろん、巻末の原文資料には歯が立たないが。
- 国立国会図書館デジタル化資料
- 塩尻 「勢州菰野山湯本の圖幷記」 P380 (200/443)
- 校訂鶉衣 「薦野記」 P96 (41/113)
- 新釈日本文学叢書第12巻 「薦野記」鶉衣 P59 (61/383)
- 西遊旅譚 「湯の山路渓河之図」 (23/27)
- 江漢西遊日記 「湯の山谷川」 P41 (32/112)
- なお、「おく山ふみ」など「菰野町史(昭和16年版)」に掲載されている。
- また、著者のサイトに次の資料がある。【 ← 閉鎖されてしまった。】
- 江戸時代の御在所岳登山(一)P1、P2、P3
- 江戸時代の御在所岳登山(二)P1、P2、P3、P4
- 江戸時代の御在所岳登山(三)P1、P2、P3、P4
- 江戸時代の御在所岳登山(四)P1、P2
(作成 2002-03-09、更新 2017-10-30)
鈴鹿霊仙山の伝説と歴史
- 著者:中島伸男
- 1989(H01) 149p A5 書誌
霊仙山とその周辺の歴史・伝承を集めたもの。近江側が主であり、美濃側の記述は少ない。気になる霊仙寺は、その存在自体について否定的だ。霊仙三蔵についても、当地出身者であるとの確証はないとしている。
「山の道は、悪い方がよい。道を改修すると、いろんな人物がやってきて事業の目論見をやる。道を悪くしておくのは、村を安全にしておく道だ。」
北尾鐐之助の登山紀行文(大正6年)に登場するガイド役「名物の清太」さんの話に思わず頷いてしまう。しかし、いまは地元の林業組合がブルドーザーで林道を開いてしまう時代だ。もはや、村は昔のような意味での山を必要とはしないらしい。守るべき対象の村そのものが変質、あるいは消失してしまったのだから仕方ない。
- 目次
- 一 霊仙寺の仏像
- 二 霊仙寺について
- 三 雨乞い行事と伝承
- 四 霊仙山の清泉と洞穴
- 五 山名を考える
- 六 明治以後の霊仙山
三重県立図書館にて閲覧した。(作成 2002-05-06)
論集 三重の民俗 三重県の伝承文化をさぐる
- 編者:三重民俗研究会
- 発行:三重大学出版会
- 2000(H12) 217P A5 書誌
論文10編を収める。そのなかに、筒井正氏による「廃村茨川の歴史と伝承」と題された1編(35ページ分)を含んでいる。
筒井氏は茨川で最後めで残った家族の長男。昭和40年8月、9歳のときに離村された。茨川はこれにより廃村となった。本編の構成は以下のとおり。
- 1 茨川の歴史
- 2 廃村茨川の生活伝承
- 3 萱とイワナの思い出 -茨川に生まれ育って-
何度か治田峠の道を歩いたことがある。トンネル手前の下り藤の付近は少し道が怪しくなってきたが、尾根を登り始めると良い道になり、中尾地蔵の小さな祠の前でひと休みすることになる。当時は生活必需品の買い出しのため、この道を月に2、3度は越えて、新町からバスで治田や阿下喜方面へ出かけたという。
なお、本編は「鈴鹿山麓の民俗」に収められたものを加筆修正したものとのこと。四日市市立図書館にて閲覧した。(作成 2001-12-01)
霊仙三蔵と幻の霊山寺
- 編集:さんどう会
- 発行:さんどう会
- 2201(H13) 163p B6 書誌
最澄、空海らと同時期に遣唐使として中国へ渡り、日本人では唯一、三蔵の称号を与えられた興福寺の僧・霊仙。その興福寺の資料に近江・丹生郷の所在として名称が残された霊山寺。それぞれ史料が少なく、霊山寺に至ってはその存在すら疑わしいほど。
本書では、石山寺、興福寺での史料確認の様子などを紹介しながら、現在までの霊仙研究の成果を概観していく。また、その他に最近の霊仙顕彰の動きや霊仙山の雨乞いの紹介もされている。
- 第一部 霊仙三蔵
- 第二部 霊仙山と幻の霊山寺
- 第三部 霊仙三蔵顕彰の旅
- 第四部 霊仙山の雨乞い伝説
決死の覚悟で日本の朝廷との間を往復し、再び訪ねた五台山で霊仙の死(毒殺?)を知った渤海の僧・貞素の嘆きはいかばかりか。その12年後、荒廃した寺院で貞素が書き残した板書を読み、「入唐求法巡礼行記」に書き移した慈覚大師はどうか。誰しも、篤い思いがこみ上げてくるに違いない。それにしても、霊仙が一万粒以上の仏舎利を日本に送ったとされているとは。
なお、編集・発行の「さんどう会」は有志で結成され、名称は鞍掛峠越えの「参宮街道」から取られたとのこと。霊仙寺が存在することの根拠であった「興福寺官務牒疏」は偽文書(2018-07 広報まいばら)とのこと。サンライズ出版のサイトにて購入。(作成 2002-09-07)
新道岩陰遺跡 関町埋蔵文化財調査報告書13
- 編集:三重県鈴鹿郡関町教育委員会
- 発行:三重県鈴鹿郡関町教育委員会
- 2003(H15) 13p A4
新道岩陰遺跡は、鈴鹿川と加太川の合流点(大和橋)から約500m遡った鈴鹿川右岸の岩陰に位置する古墳時代の遺跡。「関町文化財調査委員である木崎嘉秋氏が平成11年1月に、関町大字新所町字新道の鈴鹿川右岸の崖下の岩陰に、多量のアカニシ、ハマグリ等の貝殻とともに、S字状口縁台付瓶や高坏片等の土器片が散布しているのを発見したもの」とある。
遺跡は最大5mのオーバーハングした大岩下、落盤石に囲まれた狭い空間で、中へ入るには岩の根元の隙間であるくぐり穴を通る。エリア内の南側の岩の背後、2m×0.5mの範囲に遺物が散布しており、土器、獣骨、貝殻等が採取された。土器から遺跡は4世紀のものと推定され、磐座信仰の時代には少し早い。ハマグリ製貝製品が1点見つかっているが遺物の祭祀的性格は薄い。
磐座の一般的成立が5世紀であること、祭祀遺物を含まないことから、信仰の場であることを否定はしないが磐座には否定的。人骨が出土していないので葬所も否定的。日常的な生活には適さない場所であることから、キャンプ的生活の場であること言及しているが、遺跡の性格は良く解らないとしている。
楠公民館図書室にて閲覧した。(作成 2014-01-19)