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  3. 2023年10月12日

鈴鹿:霧ヶ岳・四方草山・三子山

林道鈴鹿南線の椿峠から北山、霧ヶ岳経由で県境尾根へ。

椿峠から霧ヶ岳までは一般登山道ではなく、火打谷乗越への下降は危険と感じた。また、一般登山道の四方草山南峰から三子山北峰との鞍部までは足下が良くない。

登山日
2023年10月12日木曜日
ルート
岩屋観音-林道鈴鹿南線-椿峠-火打谷乗越-北山-霧ヶ岳-四方草山-三子山-岩屋観音

林道鈴鹿南線

坂下集落西端の岩屋観音、その西の国道沿いにある駐車スペースに自動車を置いた。東へ歩くと東海自然歩道の入口が閉鎖されている。「路体が危険な状態なため、通行止め」とあり、添付地図では国道から離れて歩く部分の全域が通行止にされている。国道の舗装路を歩けば通行には何の支障もないけれど。

岩屋観音では「岩屋十一面観世音菩薩」の石柱が常緑樹に隠されそう。真っ白だった石像二体も灰色になった。坂下集落の旧東海道を歩き、林道鈴鹿南線へ向かう。

舗装された林道を歩き、筒露谷手前の峠状で右に鳥獣保護区や林道鈴鹿南線の倒れた看板を見ると、左に黒いプラスチック階段と中部電力パワーグリッドの「坂下反射板」の表示がある。ここが反射板の登山口だ。

筒露谷の橋を渡ると左に三井物産の看板がある。許可なく林内へ立入禁止とのこと。ここから北山西側へ登りやすそうな尾根があるのだが、予定通り先へ進む。

地図の大きさ:600×150 600×300 600×500

地図の大きさ:600×150 600×300 600×500 地図表示について

赤線:登路、駐車地、岩屋観音、坂下反射板登山口、三井物産看板、椿峠、火打谷乗越、北山、霧ヶ岳、四方草山南峰、三子山南峰の磐座、

この地図は Garmin eTrex32x により取得した軌跡を編集して国土地理院の地形図に重ねて表示したものです。

椿峠から火打谷乗越へ

ようやく椿峠の切り開きに到着した。ここから火打谷乗越を経由して北山、霧ヶ岳へ登り、県境尾根に出る。

このルートは登山地図(昭文社)では赤色破線の難路、亀山市地図情報サービスの亀山7座トレイル登山道では「登山コースでない小道(廃道等)」とされている。登山道として管理する気はないのだろう。椿峠から火打谷乗越の東側ピーク550mまでの歩行は問題なかったが、火打谷乗越への下降は急降下でルートは曖昧。危険と感じた。

椿峠の東側の林道から植林の急斜面を強引に登る。尾根に乗れば雑木は刈り払われており歩行に問題なし。420mピークへの急斜面では足下がズルズルと滑る。ここで方向を西へ変えるが下降時なら迷いそう。この付近から目印をほとんど見ない。

尾根上には倒木があり、所々で左右から枝が伸びている。何度かクモの巣に顔を突っ込んでしまう。500m付近で溝状の道跡が現れた。ここまで別に良いルートがあるかも。

550mで西へ曲がり火打谷乗越へ急下降するが、薄い踏み跡を見失い進退窮まる。こんなルートに来なければ良かったと後悔しながら木に掴まって観察すると、狭くて薄い踏み跡があるが掴まる木がない。慎重に斜面を横断して木を跨ぎ、明瞭になった溝をズルズルと滑り降りて狭い鞍部に下りた。やれやれと思い正面の2m余の岩場を登ろうとすると岩がボロリと崩れる。ザレ場をしばらくで、地形図に破線がある火打谷乗越に到着した。

北山・霧ヶ岳

写真1 火打谷乗越から北山
南の火打谷と北のオクガタキ谷の乗越が火打谷乗越だ。南には踏み跡があるかも。北の谷にはなし。地形図は北の尾根に破線があるが確認していない。その尾根付近から見上げたのは北山だろうか。高度差があってウンザリする。

ここから北山までは明瞭な踏み跡はない。少し岩があるが歩くには支障なく、体力勝負で登るのみ。

雑木の北山山頂には名札があり、ここから踏み跡が明瞭になる。西へ歩いて三井物産の看板からの登路を確認し、南側に植林を見て西進すると霧ヶ岳の名札があって県境尾根に達した。北から西に展望がある。

四方草山

写真2 四方草山三角点にて

黒土の県境尾根を歩くと三重県側の巻き道へ直進してしまいそう。目印があるので右上に登れば四方草山の三角点に着く。ササが枯れた尾根上の通過点でしかなく、山頂という雰囲気は薄い。

四方草山は、明治13年の教科書・滋賀県管内甲賀郡誌(国立国会図書館)に冷水ヶ岳として出てくる。現在は四方草山で定着してしまったが、「鈴鹿の山と谷」では採名の不備を悔やんでいる。

展望が良い四方草山の南峰まで進み、おにぎりを食べて休息した。晴れて、少し西風があるが寒いほどではない。秋になったが、まだ大気の透明感が足りない。

写真3 四方草山の南峰から明星ヶ岳を見る

県境尾根を下り始めると620~630mに滑りやすい黒土の斜面があって危険。四つん這いで下りるが、固定ロープは細かったり、長さが足りていなかったりする。地面から飛び出した木の根を掴むが、これも登山者に酷使されて駄目になりそうだ。

続いて突然に地質が変わったように現れる褐色のキレットを伊勢側に巻いて下降する。これ以降は三子山北峰との鞍部まで足下が良くない。半袖ではどうかと思ったので、念のためにザックから長袖を引っ張り出した。

三子山

三子山手前の鞍部は滋賀側が暗い植林。三重県側が荒れた感じの雑木林。2001年に歩いたときには、この付近はススキの草原だったと記憶している。滋賀県側にはススキに埋もれるように植林の若木があったと思う。

写真4 三子山中峰にて

三子山北峰の登りがキツイ。北峰はあまり展望はないが鎌ヶ岳の上部が見える。

亀山7座トレイルの案内板の上下が木に固定されているが、既に下のヒモが切れている。環境配慮かも知れないが、そのうちに切れ落ちて道案内の用を為さなくなりそうで勿体ない。他の案内板も同様に丈夫なヒモを使用できないものか。

中峰へ行くために下りて登る。これが三回あるなんて拷問のようだ。中峰には北峰と同様に土盛りがある。雨乞に関わるものらしいが、草原の山の頂上で焚かれる火はどの様に見えただろう。

南峰の磐座はササ枯れで丸裸になった。南東尾根も丸裸で目印があるので追いかけた。雑木の尾根を下りると460mで植林境界(右植林)に出た。目印は急勾配の境界尾根を下降する。一度、左の雑木へ入り急斜面をジグザクに下りる。イバラがあり左足を引っかけて痛い目にあった。境界尾根に戻り、やがて植林に入って右下に見える谷川を横断すると明瞭な作業道がある。これを歩いて東海自然歩道の三子山南峰の標識に下りた。

写真5 岩屋観音にて

このルートは登山地図の赤色破線だろう。現状は迷わない程度に目印があるが、急下降で精神衛生上は良くない。手っ取り早いが、下山なら鈴鹿峠経由の道をゆっくり歩いた方が良いと思う。今日は山中で登山者に出合わなかった。

南峰標識から閉鎖中の東海自然歩道を東へ下りて岩屋観音へ行くと軽四トラックがある。腰が曲がり始めたおじいさんが境内で何かしてるのを見て駐車場へ戻った。

完登バッジ

あまり広報していないのか。何故か亀山7座のサイトにないが、亀山市のサイトに「亀山7座トレイル完登バッジと完登証について」がある。

再度、登る必要があるし、いまいち物欲を刺激されないのだが、どうしましょうか。

行程表

8:12駐車地、出発
8:54坂下反射板登山口
9:30林道鈴鹿南線・椿峠(9:30-9:37)
11:06火打谷乗越(11:04-11:10)
11:36北山
11:52霧ヶ岳(11:52-12:02)
12:39四方草山三角点
12:49四方草山南峰(12:49-13:02)
13:59三子山北峰
14:36三子山南峰の磐座
15:16東海自然歩道・三子山南峰標識
15:23駐車地、到着

備考1:霧ヶ岳の地名について

登山地図には霧ヶ岳の北に錐山(キリヤマ)がある。さすがに、同じような名称の山が隣接することは胡散臭いと感じる。「鈴鹿の山と谷」は霧ヶ岳、錐山・錐ヶ岳(亀山森林組合では火打谷乗越の東の山)の位置問題に結論を出していない。

明治21年の地質要報第2號(国立国会図書館)の各地高低表に鈴鹿郡として霧ヶ岳がある。明治24年の近江名跡案内記(同)では三ツ子山に「冷水岳、霧ヶ岳は山女原村ノ東にアリ」、明治36年の帝国地名大辭典(同)の三つ子山に「笹路の東に冷水岳、霧ヶ岳等並び立ち」など、大正4年の鈴鹿郡郷土史(同)の野登村に「錐ヶ岳:村の西方にあり。一名錐ヶ瀧…豁水東に落ちて安楽川に入る」、白川村に「霧ヶ岳:大字白木近江の国境にあり…萬壽寺川:源を霧ヶ岳に発し」とある。

そして、大正14年の甲賀郡誌(国立国会図書館・個人送信)では「冷水岳は山内村大字山女原の東南に在り…その東に連なるを『霧ヶ岳』と称す」となる。

冷水岳は四方草山のこと。萬壽寺川は萬壽寺を流れる前田川か。ならば、単純に前田川の水源の位置から霧ヶ岳は火打谷乗越の東の山となるが近江国境から離れてしまう。錐ヶ瀧は安楽川上流の南側の地名。岩坪川上空を通過する新名神高架橋は「錐ヶ瀧橋」だ。

鈴鹿郡郷土史では同じような場所に「霧ヶ岳」と「錐ヶ岳」がある。甲賀郡誌によると霧ヶ岳は旧野登村と旧白木村の境界らしいので、登山地図は鈴鹿郡郷土史に従って旧野登村側に錐山を置いたのか。それとも「鈴鹿の山と谷」の錐形状を理由とする比定案をそのまま取ったのか。「霧ヶ岳」と「錐ヶ岳」を別の山にしなくても良いと思うのだが。

備考2:岩屋観音について

亀山市立図書館の地域資料に「山岳修験第60号」(2017)があり、「三重県亀山市関町旧坂下村岩屋観音の石川竹四郞 江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』完成の地と『白衣の行者』」が掲載されている。著者は宮本和歌子。

この論文によれば、江戸川乱歩の父親が末期癌で闘病生活をしていたのは岩屋観音とのこと。小屋を借りて自炊生活をする両親を訪れた乱歩は、ここで「屋根裏の散歩者」を完成させて関町の郵便局から発送した。発表は1925年(大正14)のこと。100年前だ。

当時、治療していたのは白衣の行者・石川竹四郞であり、法安寺に墓が残っている。患者をなでて治療したらしいが、地元の人は治療費を支払ったことがないという。石川没後に岩屋観音は寂れたが、何者かが出入りするようになり、敷地でない場所に石像二体を建てたとのこと。(そういえば、御在所岳・長者池に係わる同様の「なで医者」矢田甚太郎は大儲けしている。)

なお、岩屋観音の清滝は、二十~三十年前の大雨による土砂崩れで水量が減ったとある。三子山南峰からの下降で横断した谷川が清滝の水源だ。葛飾北斎の諸国滝巡りに「東海道坂ノ下 清滝くわんおん」(ARC浮世絵ポータルデータベース)として描かれている。当時は名所だったが、現在は日向なのに陰気な雰囲気になっている。

(作成 2023.10.13)