1. 鈴鹿山脈/登山日記
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鈴鹿:石尾山・中山

雨乞いの茶湯池があるという石尾山(230m)と三等三角点の中山(344.9m)へ登った。どちらも野登山から南東へ延びる亀山市・鈴鹿市境界上の低山だ。

これらの山を2回歩いたので、その記録を併せて残しておく。

登山日
2024年1月6日土曜日
ルート
安楽集落-石尾山-中山-安楽集落
登山日
2024年1月14日日曜日
ルート
安楽集落-中山-石尾山-安楽集落

石尾山について

亀山市史の「かんこ踊り」の両尾町平尾に「雨乞いの願は石尾山のチャト池へ懸け、練っていき、太鼓踊りを踊った」とあることを見つけた。

かつての石尾山は南東に泉や小滝があり、山腹には茶湯(チャト)池、山頂には潜石という奇岩があった。湯の山という温泉場には遊里まであって繁盛したという。「鈴鹿の山と谷」第6巻の地図に石尾山(230m)、畑越、中山が書き込まれているので、枯れ葉の時期を待って山歩きに出かけた。

2024年1月6日

安楽川沿いの県道を西進し、東安楽のバス停から集落の狭い道を上がって安楽公民館の前に出た。しかし、立入禁止とあるので、先へ進んで高速道路の高架橋下にある三角地に自動車を置いた。軽四自動車1台なら支障なさそうだ。

防霜ファンが立ち並ぶ茶畑を出て舗装路を歩く。その道路沿いに「くくり罠」の設置表示を二ヶ所で見た。地道になった路面のタイヤ跡は罠を見廻る猟師のものか。道路の草は刈り払われているが、耕作放棄地での刈り払いは、猟のため、植林管理のため、それとも茶湯池への信仰が残っているためか。

写真1 石尾山への舗装路写真2 畑越の石標(右:安楽、左:原)

道路終点で小川を渡って谷状の山林を登ると亀山市・鈴鹿市境界の峠に出た。ここが「鈴鹿の山と谷」にある「畑越」か。道の両側に石標各1基があり、左側(北側)の石標には右原、左南畑とある。右側(南側)の石標は右安楽、左原だ。

南畑は西庄内町に地名がある。原は現在の東庄内町らしい。今昔マップで1920年の地形図を確認すると原村がある。

写真3 茶湯池の祠写真4 茶湯池
写真5 石尾山山頂部写真6 石尾山230m

原方面へ植林の道を歩くと右側斜面に茶湯池と祠を見つけた。池はヌタ場になっており、少し荒れた感じがするのは仕方ないか。祠は現役の立派なものだ。祭神を判断できそうなものは見当たらない。ここで太鼓踊りをして、神様に雨を祈ったという。良く整備された植林のなかの静謐な場所だった。

さらにプラ杭がある道を進むと下り始めた。鈴鹿市サイトの地形図を確認すると、ここが亀山市・鈴鹿市の境界らしい。国土地理院の市境界とは微妙に異なる。

引き返して登った石尾山の山頂(230m)は雑木林で、散弾銃の薬莢が幾つか落ちている。物騒な場所だ。イセAOKIの山名板が木に食い込んでいた。丸い岩が幾つかあり、潜石を探すが山頂周辺では見つけられなかった。

地図の大きさ:600×150 600×550

地図の大きさ:600×150 600×550 地図表示について

2024.01.06 赤線:登山ルート、紫線:下山ルート、:駐車地、:廃小屋、:畑越・石標2基、:茶湯池の祠、:石尾山、:No64鉄塔

2024.01.14 青線:登山ルート、緑線:下山ルート、:駐車地、:No63鉄塔、:中山、:潜石、:新一の谷橋(市の谷川標識)、:水晶橋(水晶谷川)

畑越の石標に戻って市境界の尾根を北へ登る。この雑木や植林の尾根には道跡があり、草が生えた林道に飛び出したので、適当なところから亀山西名古屋線のNo64鉄塔に登った。鉄塔は南西方向以外は植林なので展望は良くない。

イオンの投げ売りで買った目立つ色が取り柄のパーカを着たが湿気がこもる。モンベル鈴鹿店が近いので適当なモノを調達しようと思い下山する。鉄塔南側に目印があったので、急斜面を無理矢理に下りて目印を追ったが消えてしまった。結局、往路を引き返した。安楽公民館から広い車道を下ると東安楽バス停の西で県道に出た。

帰宅してGPSの軌跡を確認すると、中山の三角点へ行っていないことに気付いた。もうボケ老人だね。

行程表

10:38新名神高速道路下の駐車地、出発
11:03畑越
11:25石尾山 230m (11:25-11:35)
11:41畑越
12:07鉄塔 No.64 (12:07-12:15)
12:40畑越
12:56駐車地、到着

2024年1月14日

県道の脇に自動車を置いて公民館経由で歩いた。猟師の気配はないが、道路脇にも薬莢が転がっており油断ならないかも。調達したオレンジ色の長袖Tシャツ一枚になる。

左折して西へ入ると道路を塞ぐ倒木の手前にNo63の標識があったので、植林のなかの巡視路へ入った。着いたNo63は植林で展望なし。

写真7 中電・亀山西名古屋線 No64鉄塔

巡視路は雑木になり、植林境界(東側:植林)に出合う。巡視路でなく植林境界の下方に目印が続いているが、何処へ連れて行かれるのやら。そのまま植林境界をプラ階段で登って雑木のなかにある中山の三等三角点(一の谷)に到着した。ここも展望なし。

三角点から北へ歩くと、浅い溝状の道が東西にあり、東へ歩けばNo64鉄塔に着く。途中、右下へ道が分かれていたが鉄塔の南を巻くのか。茂っているので入らなかった。

畑越に下りて石尾山の西側の山頂を徘徊した。山頂にある積岩門のような「潜石」を探すが見つからない。範囲を広げて、平尾集落からの登路であったろう南尾根を下ると岩が現れ、そのなかに潜石らしいものを見つけた。

写真8 潜石(北側から)写真9 潜石(南側から)

高さ3m余り。岩の間に斜めになった縦長のスリットがある。幅は30cmくらいなので子供でないと通れない感じ。帰路、亀山市立図書館で「石水渓」に掲載された写真と比べると似ている。少し茂っているけれど、どうやらこれが潜石らしい。この尾根から茶湯池への道が残っていないかと思い歩いたがはっきりしなかった。

風がない穏やかな日になった。畑越から道路に下りるとゴルフ場方面へ植林管理と思われる道が刈り払われていたが、遊里があったという泉源は見当が付かない。公民館には多数の軽四自動車が置かれ、老人達がゲートボールに興じている。ここに自動車を置かなくて良かった。

行程表

10:15県道脇の駐車地、出発
10:40巡視路入口、亀山名古屋西線 No63標識
11:07中山三角点
11:38畑越に到着、西側山頂へ
12:53畑越に戻る
13:32駐車地、到着

備考1:石尾山

石尾山や茶湯池の雨乞いを地元発行の冊子に見つけた。メモを残しておく。

(1) 大正4年の「鈴鹿郡郷土史(国立国会図書館)」は「東は一面丹豁にして、小泉湧出し、南崖には小瀑かゝり、北には、山腹に天然の小池あり。里人之を茶湯池と云う…茶湯池に雨乞をなす…頂上には積岩門の如きあり。土人之を石門と称す」。

(2) 昭和30年の亀山高等学校郷土研究会による地方史研究誌「鈴鹿」No.7(国立国会図書館・送信資料)は「亀山市両尾町の雨乞い」として、茶湯池の祠を「茶湯池神社」と呼び、石尾山や雨乞いの聴き取りを記録している。石のくぐり穴があるので古老は石尾山ではなく「くぐり石」と呼ぶ。温泉があり「湯女といってサービス女がいて浴客をもてなした銭湯もあった…元禄年間のこと」ともある。

(3) 昭和56年の「石水渓」は「頂上には積岩門の如きあり。村人これを潜石と呼ぶ。東北山腹に天然の小池あり。里人之を茶湯池と云う」とあり、潜石と茶湯池の写真が掲載され、手書き地図に温泉の泉源2つがある。昭和56年の時点で泉源が残っていたか。

(4) 平成7年の「市制四十周年記念誌・亀山のあゆみ」は「両尾町平尾の我女川上流の北にある石尾山は、山というより丘陵状の露岩の点在する山で、標高は230m。昔は湯の山といって温泉場があり浴客の往来が多く、遊里まであって繁盛したということが、今に残る人足馬の駄賃書や掟書などで知ることができる」。

大正12年に安楽公園保勝会ができ、石水渓や坂本の弥勒菩薩とともに観光開発を目指したらしい。いまはローモンドカントリー倶楽部(平成9年開設)があり、これを迂回しないと平尾集落からは石尾山や茶湯池へ行けない。なお「鈴鹿の山と谷」の地図は我女川の位置を間違えている。

備考2:水晶山

「鈴鹿の山と谷」の地図には水晶山が中山の直近にあるが、本文には説明がないようだ。

明治22年の「伊勢名勝志(国立国会図書館)」に「安坂山村水晶山を云う、山巓悉く白沙…西方、釜谷川に臨む」とあるが、釜谷川の所在が分からない。明治36年の「帝国地名大辭典(国立国会図書館)、大正4年の鈴鹿郡郷土史(国立国会図書館)の内容は「伊勢名勝志」と大差ない。

「鈴鹿郡郷土史」は釜谷川の水源を宮川とともに雞足山としているので、釜谷川とは水晶谷川のことだろうか。そうなると、水晶山を中山付近と考えることは無理かも知れない。山巓悉く白沙という水晶山は何処にあったのか。

(作成 2024.01.15)